『ながい窖』(手塚治虫 著)

 学術出版物としては異例の増刷を重ねる、本書の見どころは大きく二つある。全集にも未収録で半世紀近く人目に触れてこなかった手塚治虫の短編を復刻したこと。そして、6名の識者による多面的かつ精緻な解説を併載したことだ。

 この周到な構成により、今こそ読まれるべき作品のメッセージをはじめ、当時のマンガ業界における手塚のポジション、作品テーマと社会背景との関係、日本の近現代史が孕む「在日」問題などを、立体的に把握することができる。

 この『ながい窖』は、『サンデー毎日』1970年11月6日増刊号に掲載された。在日朝鮮人であることを隠した主人公の家族を軸に、戦時下の歴史や差別の問題に一石を投じた、社会派の50頁の作品だ。同誌70年11月8日号の広告には「大人が子供のマンガ雑誌を読む時代は終わった!」という惹句が躍る。60年代後半に青年向けの劇画や少年誌のスポ根ものが流行する中、「マンガを卒業しない大人たち」が増加していた時代状況がよくわかる。

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 だが、この時期の手塚はどん底にいた。他のマンガに加えて特撮にもファンを奪われ、漫画家としても虫プロの経営者としても苦しんでいた。ただ結果的に、この頃に社会派の短編を描き続けた経験が、73年から開始したヒット作『ブラック・ジャック』の題材や読み切り形式にも影響するなど、手塚の漫画家人生の後半を支えることになる。

『ながい窖』を唯一収録したのは72年の『空気の底』下巻。表題作は短編シリーズだが、その第一話『ジョーを訪ねた男』の題材は黒人差別である。以後も核兵器や性の問題といった大人向けの内容が続く。ただし、いじめや差別の話は子供向け作品の時代から一貫していた。それは『鉄腕アトム』の冒頭を読むだけでもわかる。この時期を境に変化したのはテーマよりも伝え方なのだ。子供用の包装紙を剥いで、人物描写、コマ割り、設定など、大人向けに生々しく描く実験を手塚は重ねた。

 空襲で九死に一生を得た手塚は、大半の作品で人間同士の差別や対立の愚かさを、さらにその基底にあるディスコミュニケーションの問題を描いた。しかし、どれだけ描いても不安や不満は尽きなかったはずだ。戦争に人種差別、薬害に環境破壊、そして在日朝鮮人と、マンガで取り上げた題材はどれも看過できない関心事だったに違いない。

 手塚が『ながい窖』を封印した理由は不明である。ただ、その判断自体が、当時の手塚と彼を取り巻く日本社会の実態を考えるうえで、示唆深い手がかりだと言えよう。とりもなおさずそれは、本作が復刻され、これほど注目を集めている「日本の今」を知るための手がかりともなるはずだ。

 諸方面で差別の問題が顕在化している今、本書は再読されるべき手塚作品への貴重な架け橋である。 

てづかおさむ/1928年、大阪府生まれ。46年、漫画家デビューし日本のストーリー漫画の確立に尽力した。また、アニメーションの世界でも大きな業績を残した。代表作に『鉄腕アトム』『火の鳥』『ブラック・ジャック』『アドルフに告ぐ』など多数。89年逝去。

よしむらかずま/京都精華大学理事長。今春、マンガの黒人描写問題に関する論考を『小松裕先生追悼論集』(雁回書房)に寄稿。

ながい窖

手塚 治虫 ,四方田 犬彦 ,本浜 秀彦 ,李鳳宇 ,神谷 丹路 ,林 晟一 ,李英美

法政大学出版局

2026年6月2日 発売