2、3年前、ある学会に集まった40代の学者たちがたまたま僕のことを話題にしていたそうです。それを横で聴いていた友人が、後日その噂話を僕に教えてくれました。「内田さん、評判悪かったですよ」と教えられたので、「何なの、僕のどこが悪いんだって?」と訊いたら、「身の程を知らない」ということだったそうです。「内田は身の程を知らない。自分の専門外のことに口を出す。学者としての節度がない」と酷評されていたそうです。
これには驚きました。「身の程を知れ」「分際をわきまえろ」という言葉は、たしかに僕も子どもの頃にはよく言われました。大人の話に紛れ込んで、口をはさんだりすると、親や先生から「身の程を知れ」とぴしゃりと叱られました。でも、そんなの小学生の時までですよ。中学生から後は一度も聴いたことがない。
日本人が身の程を知らずに「世界一になる」と言えた時代
それも当然ですよ。60年代から80年代にかけてというのは、日本が凄まじい勢いで経済成長した時代だったからです。東大阪や蒲田の町工場があれよあれよという間に世界のトップメーカーになった。町工場のおっちゃんが「よし、世界一を目指そう」というようなことを本気で言っていたんです。事実、そういうことが言える時代だったんです。
日本人の誰もが「身の程を知らず」に上を目指し、敗戦後の焦土だった日本がみるみるうちに世界第2位の経済大国にまで成長した。それというのも日本人が「身の程を知らなかった」からです。
だから、その時期に誰からも「身の程を知れ」というような叱責はされたことがありません。でも、この「失われた30年」の間に、日本の経済力は衰え、国際的な存在感も、学術的な発信力も低下し続けている。それと日本人が「身の程を知るようになった」ことの間には関係があると僕は思います。日本人が身の程を知ったせいで、国力が衰えたのか、国力が衰えたせいで、身の程を知るようになったのか、その因果関係はわかりませんが、相関関係があることは確かです。
そして、「早く自分のニッチを決め、二度とそこから出てくるな」というような進学就職指導のあり方は、まさに子どもたちに向かって「身の程を知れ」と言い続けているようなものです。
「自分探しの旅」や「本当の自分」という言葉には警戒心を持つべき
僕のことを「身の程知らず」と批判した若い学者たちも、たぶん「自分探しの旅」とか「本当の自分」との出会いとかを経験してきたせいで、「自分専用の穴ぼこ」を見つけて、そこに潜り込んでいるんだと思います。でも、たぶんそれがあまり楽しくないんだと思います。だから、僕みたいに身の程知らずに好き勝手な仕事をしている人間を見ると不愉快になる。なんであいつだけあんな気楽なんだ、こっちは息苦しい思いを我慢しているのに……と思ったのかも知れない。
でも、やっぱり「自分探しの旅」とか「本当の自分」とかいう言説にはもっと警戒心を持つべきだと思います。とりわけそれが「早く自分の専門分野や就職先を決めて、二度とそこから出てこない生き方」というふうに限定的に解釈されることに対しては拒否してもいいと思います。「そんなの嫌だ」と言う方が中高生としては自然な反応です。
だって、生命の本質は「変化する」ことだからです。うっかり「本当の自分」などというものを見つけた気になって、そこに居着いてはいけない。
武道では「居着き」という用語を使います。足裏が地面に貼りついて身動きできない状態のことですが、広義には、ある状態に釘付けになって、変化成長することができなくなることを指します。武道修行の目的は「居着きを去って、自在を得る」ことです。それは居着く者は必ず敗けるからです。