――そのころの事情や葛藤はエッセイ本にしっかりと記され、読み応えもたっぷりですが、当時の生活がハードすぎて「正直ほとんど覚えていない」「綱渡りのような日々」とも。授業の板書をノートに写しながら気絶していたというエピソードもありました。心身のギリギリの綱渡りをしながら、それでも多忙すぎる高校時代を走り抜け、慶應義塾大学SFCに合格後も二足のわらじを履ききり、あの卒業に厳しいことで有名な大学で、きちんと卒業まで漕ぎ着けます。その間に、山崎怜奈という知性に気づいた制作者たちから、冠番組や有名番組のオファーも受けていく。並大抵の精神力では、こんな両立を遂げることはできないですよね。

山崎 やってみてわかったのは、学業と芸能という二足のわらじが、思いのほか自分の性に合っていたということなんです。もちろん決して楽な青春ではなかったけれど、大学での勉強に疲れたら、ライブや握手会で気持ちが切り替えられるし、仕事がうまくいかなかったら、大学の講義や友達との会話に救われるし。あの頃の自分と、支えて鼓舞してくださった方々に、ただただ感謝。大学を卒業し、25歳でアイドルグループも卒業し、最後までやり切らせてもらって、未練や後悔はないです。

©山元茂樹/文藝春秋

「自分が鍛えてもらえるところに自分から移る」という戦略

――大学在学中も、地方局のラジオ番組を聞き漁ってトーク力を磨いたり、中国語の勉強をしたり、クイズ番組のためにファミレスで資格試験受験生のような勉強を重ねたりと、たゆまぬ努力とはこのことか……と、ため息が出ます。その結果、ラジオと歴史とクイズが山崎さんの武器となっていくわけですね。アイドルの卒業後って、アスリートと同じく“セカンドキャリア”みたいなシビアさもあるのかなと思いますが、山崎さんにはちゃんと強みが育っていた。そのあたりのキャリア設計は意識的でしたか?

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山崎 グループ在籍中から役者と両立している人は多くて、アイドルから俳優になるOGがたぶんいちばん多いんです。私もお芝居を観るのは好きなので、やってみたいなと思っていた時代もありました。でも、そういう人は他にもたくさんいるからきっと私は埋もれてしまうし、上が詰まっていて勝ち抜ける気がしなかった。だからそれよりも他に好きなものを耕したほうが、可能性があるな、と。打順が回ってくるのを一生待ち続けるのか、それとも自分が鍛えてもらえるところに自分から移るのか。

©山元茂樹/文藝春秋

――「ない椅子を作りに行く」という表現で、本の中にも書かれていましたね。絵や語学もいろいろ試してみて、「跳ねない」ものは外していった、と。結果的にラジオと歴史とクイズが当時の武器となったんですね。

山崎 ラジオと歴史はもともと趣味でしたけれど、クイズはやると思っていなかったです。小さいころに自分でも見ていたけど、自分が呼んでいただけるとは想像してなかった。運が良かったというのもすごくあるし、そういう棚ぼたをキャッチできる準備が自分の側にできてないといけないんですよね。アイドルグループは大所帯で、いつ自分に打順が回ってくるかわからない。予期せぬことが起きる一方で、チャンスが回ってくるとも限らない。だから組織の中の一員としてグループにどう貢献できるか考えて、自分を整えて備えておくという意識でした。