『三鬼』(小林恭二 著)

 明治生まれの俳人・西東三鬼(本名斎藤敬直)は俳句を嗜む人にとって知らぬ者はいないが、一般的にはまだ認知度は低い。だが、小林恭二の17年ぶりとなる、虚実織り交ぜた新作小説によって、俄に三鬼の存在感が増し、令和の衆人の注目を集めるのではないか。それほど本作では、三鬼という天才俳人が小林の冴えた筆致により、一層輝きを放っている。と同時に、性懲りもなく再び戦争のきな臭さが蔓延し始めたこの時代にリンクさせてページを繰るのも一興であろう。

「昭和15年(1940)5月3日午後」、冒頭の一行から、読者は大戦前夜へと誘われる。それから初夏の道玄坂を登る主人公こと三鬼の出立ちの描写に移るのだが、この人物像を描くタッチが繊細で絶妙だ。要約すると、英国紳士風でありながら、似非紳士風にも見え、「売れない役者とか詐欺師に見られる」という一筋縄ではいかぬ怪し気な風体を醸し出している。おまけに女遊びにかまけて妻子に見放され、それに加えて俳壇の寵児となれば、益々無頼漢の様相を呈し、妙な箔が付くというものである。

 そんな三鬼が国粋主義に傾いてゆく日本で、己の生き様や俳句信条を曲げず豪放磊落に生き抜いてゆく様が活写されるのだが、冒頭の昭和15年のその日は第二次京大俳句事件が起こった日だった。この事件は治安維持法違反の容疑によって、俳誌「京大俳句」に関わった俳人が、特高(特別高等警察)に検挙されたことを指す。事件の経緯は本作でも詳しく書かれているが、新興俳句のカリスマであった三鬼であれば、真っ先に捕まってもおかしくないはずが、なぜか最後まで泳がされるのであった。

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 本作も勿論その史実に沿っているのだが、特高にマークされ続け、不気味に泳がされ続けている三鬼の周辺に勃発するスリリングな出来事をまさに鬼気迫るストーリーテリングを駆使して描き出している。

 本作の見所は史実に小説家の実しやかなフィクションが見事に加味されていることである。その境目がわからぬほど、リアルなのだ。三鬼の盟友石田波郷(はきょう)、弟子の三橋敏雄、当時の俳壇のドン高浜虚子、俳句弾圧事件に暗躍する小野蕪子(ぶし)など、登場人物が皆生き生きとしている。小林の筆が故人に息吹を吹き込んだのだ。

 特高に尾行される三鬼は、日本陸軍にまで関与され、特高対陸軍のバトルに翻弄されながら、舞台を日本からシンガポール(三鬼自身、歯科医を開業した地であり、三鬼を生んだ斎藤一族とも深い因縁のある国)へと拡大し逃走を企てる。その逃走劇では年若い市子を道連れにして、三鬼は意外な純愛の顔も覗かせたりする。

 異国の地にまで追いすがる特高の監視に、三鬼は神経をすり減らしながら打開策を模索するのだが……果たして三鬼はどうなるのか。詳しくは勇躍して「ガバリと」熱く本作を読むべし。

こばやしきょうじ/1957年、兵庫県生まれ。「東大学生俳句会」の会員として活躍。84年『電話男』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。98年『カブキの日』で三島由紀夫賞受賞。

ほりもとゆうき/1974年、和歌山県生まれ。俳人。俳句結社「蒼海」主宰。著書に『俳句の図書室』『海辺の俳人』、句集『一粟』など。

三鬼

小林 恭二

講談社

2026年6月25日 発売