高市早苗首相はこれまで、とりわけ母親について折に触れて語ってきた。そこで繰り返されてきたのが、「母の厳しさ」だった。日本初の女性総理を産んだ母・和子は、娘をどう育てたのか。その教えは、高市早苗をどのように形作ってきたのか。
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高市が若い頃、母について詳しく書いた文章が残っている。
1990年に刊行された『母の教え──日本人の心の原点を求めて』(祥伝社)に収められた「真っ赤なバラのように」である。当時の高市は29歳。松下政経塾を卒業し、政治評論家としてテレビ出演を始めたばかりのころだ。高市は母の教えについてこう記している。
〈真っ赤なバラのようであれ〉
女性であることに甘えず、それでいて女性であることを忘れないこと。そして、バラの棘のように、間違ったものを寄せつけない厳しさも持ち続けなさい──。そんな意味が込められた言葉だという。戒名の〈芳薫院〉が似合う教えでもある。
和子は、旧姓を渡辺という。愛媛の生まれで、県立松山北高校を出たあと、愛媛県庁に勤めた。古い県の職員録には、会計課で出納の仕事に就いていた記録が残る。5人きょうだいの次女で、話を聞いた親族は皆「しっかり者だった」と口を揃えた。同郷の大休と結婚し、やがて2人は奈良へ移り住み、和子は奈良県警に転職。高市と弟が生まれた。
褒められなかった少女時代
当時、周囲の人々が目撃していたのは、母娘の結びつきの強さだ。高市の中学時代の同級生は、母娘の姿についてこう証言した。
「土日に早苗のバスケ部の試合があると、早苗のお母さんが見に来てはったことがあって。当時、親が見に来ている人なんて1人か2人しかいなくて。だから、すごく仲がいい母娘だったのだと思います」
神戸大卒業後に門を叩いた松下政経塾の同期・桑名玲は、1984年春の入塾式を覚えている。高市は和子と、高校生で学ラン姿の知嗣を伴っていた。入塾式では、高市ら入塾生は家族に見守られながら壇上で決意表明を行う。その後、桑名は高市から母と弟を紹介されたという。
だが、こうした傍目からの評価とは裏腹に、高市は母について、いかにしつけが厳しかったかを繰り返し語ってきた。前出の「真っ赤なバラのように」では、小学生時代の99点の答案をめぐる話が出てくる。
それによれば、99点の答案を持ち帰ると、母は褒めるどころか強く𠮟ったという。1点を失ったのは知識不足ではなく不注意のため、というのがその理由だった。後に母から、当時はあえて心を鬼にしたのだと聞かされたが、少女だった高市にはそんなことを知るすべもない。丸めた答案を捨てることもできず、暗くなるまで田んぼの畦道を歩いた。ただ、100点を取った時にも、母から褒められた記憶はないという。

