避難は地区を7班に分け、班ごとに行う。各班では全戸の世帯人数、要支援者数、実際に避難した人数、ガスの元栓を締めてきたかどうかまで書き込む用紙を作った。最初に集まった時点でチェックし、高台に避難した後で再確認すると決めた。
避難訓練は毎年実施し、一昨年は夜間に行った。どの家に要支援者がいるかは訓練のたびに確認する。車椅子を使った訓練も行った。こうして課題を抽出しては、翌年工夫を凝らしており、昨年は乗用車を持たない人を誰の車で運ぶかも指定した。
「若手が働きに出て不在の昼間に避難するにはどうしたらいいかをテーマに訓練を企画するなど発想力があります。市が教えられることの方が多い地区です」と総社市役所の河田秀則・危機管理室長(53)は話す。
岡山県は比較的雨量が少ない。このため県庁が1989年から「晴れの国」というキャッチフレーズで県を売り出し、「岡山は災害が少ない」とも宣伝してきた。これがよほど浸透していたのか、真備では被災後、「災害が少ないと思い込んでいたから、準備が手薄だった」と話す人が少なからずいた。
しかし、「『晴れの国』『岡山は災害が少ない』という言い方には違和感がありました」と一馬さんは語る。下原の多くの人がそう感じていたのだろう。だから、あの日も早くから「危機」を察知していた。
自主防では午後4時、役員が下原公会堂に集まった。
班長の一人、川田肇さん(72)は事前に小田川を見て回った。小田川が氾濫すれば、下原は真備もろとも呑まれてしまう。肇さんは常に小田川氾濫の危険性を訴え、自主的に見回りをしてきた人だ。「この時はまだ、いつもより少し水位が高い程度でした」と言う。
そうした報告を受け、午後10時に再度、集まることにした。3本の川は、2人1組で警戒に当たるようチームを組んだ。
自治会で会計を担当している枝松光正さん(65)は、会社に出勤していたので午後4時の集まりには出られなかった。帰宅後すぐに川を見に行くと、「水量の増えた新本川に、水がはけなくなって支流が逆流していました。これは大変なことになると腹をくくりました」と話す。午後6時から7時のことだ。
午後9時、肇さんはまた小田川を見に行った。まだ、危険な水位というほどではなかったが、下原ではこの頃から自主的に避難する人が出始めた。難波教生(のりお)さん(67)は同時刻頃、「娘に急かされて、岡山市の親類宅へ向かいました」と語る。
午後10時、自主防の役員が公会堂に集まり、とりあえず2階に避難するよう呼び掛けることにした。
枝松さんが拡声器付きの軽トラックに乗り込み、一馬さんがマイクを握る。
下原では公会堂に屋外用の拡声器が設置されているが、地区の隅々までは聞こえない。そこで昨年の避難訓練に合わせ、枝松さんが自分の軽トラックに、自作の拡声器を取り付けられるようにしていたのだ。
その呼び掛けが終わってから少しして、アルミ工場が爆発した。
犠牲者ゼロだから皆で夢が見られる
公会堂は窓が抜け、天井が落ち、ガラスで顔が切れた役員もいた。
「慌てて外に出ると、アルミ工場からオレンジ色の炎が出ていて、きのこ雲も上がっていました」と、一馬さんは振り返る。
火の玉のような破片が飛んで来て、3軒が火事になった。車も数台が燃えた。豪雨の中、自主防の役員は消火のために走り回る。
「2次爆発の恐れがある」と市役所から連絡が入り、各班長が全戸に避難を呼び掛けて歩いた。
住民の動きは早かった。