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 川田益美さん(49)の家では、70代の義母が体調を崩し、要支援者にリストアップされていた。「軽トラックの呼び掛けを聞いていたのか、義母は既に自分で大事な物をカバンに入れ、座って避難を待っていました」と益美さんは話す。市が体育館を避難所に指定したので、一家6人は車で向かった。

 自家用車のある人は車で。ない人は公会堂に集まり、市が派遣した公用車のピストン輸送で逃げる。

 班長が訓練通り、用紙に避難者数などを記入し、残った人がいないか確認した。肇さんは班長だったが、ガラスで足を切って病院へ向かったため、副班長が代行した。

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「午前2時半までにはほとんどの人が避難しました。名簿で残っていると分かった3人も警察官と一緒に連れに行き、最後に私達が逃げたのは午前4時半でした」と自主防の本部長、小西安彦さん(71)は語る。

 その後、小田川が決壊し、真備から下原にかけては水没していった。

 数日後、下原に足を踏み入れた一馬さんは腰が抜けそうになった。

 浸水したのは約100戸。125年前の高梁川決壊とほぼおなじ規模だ。しかし、水害を免れた約十戸も全戸が爆発の被害を受けていた。二重のダメージを受けた浸水家屋は、もはや人が住めるようになるとは思えなかった。

「悔しい、情けない、腹が立つ」

 惨憺たる光景を見て、胸が苦しくてたまらなくなった。

 何日かして、明け方に一人で寺へ行った。「ご先祖様、どうか助けてください」。必死で祈った。

 そんな時に勇気を与えてくれたのがボランティアだ。一日最大500人が下原に来て、たまった泥などを運び出してくれた。「支えてくれる人がいる」と思うと、心が前を向いた。笑顔が出るようになった。

まとまりのいい下原地区。いつも笑顔があふれる(下原公会堂で)

 その後も苦しくなることはあった。全戸の復旧は難しいと分かってきたからだ。「爆発で一度持ち上げられて落とされたらしく、基礎から歪んだ家がかなりありました」と一馬さんは言う。高齢者だけの世帯は数軒が再建を諦めた。泣く泣く下原を離れて息子らの家に身を寄せる。

「このままでは、あれほど仲の良かった下原地区が壊れてしまう」

 一馬さんは悩んだ。「家を建て直すだけでも大変なのに、果たして地区の復興までできるのか」。

 そうした時に、ふと思った。「目の前の辛さは変わらない。ならば逆に皆で夢を持てないか」。すると、気持ちがすーっと楽になった。

 稲作農家の多い下原では、農機具が浸かって全て使えなくなった。だが、水が引いた後の稲は住民を励ますかのように成長を続けた。今年は感謝の意味も込めて支援してくれた人々と食べたい。毎年ゴールデンウイークに催してきた地区の運動会は復興へ向けてさらに盛大に催そう。約90年前に伊与部山に開設した88カ所のミニ霊場巡りは、外から人に来てもらえるように整備しよう。下原の全戸が氏子になっている伊与部神社は、犠牲者ゼロの神様として広く知ってもらえないか――。住民からは様々な案が出ている。

「このような夢は、犠牲者がなかったからこそ語り合え、笑顔になれるのです。大災害を逃げ切った住民力で『次』を切り開きたい」

 黒く日焼けした一馬さんが、白い歯で笑う。「犠牲者ゼロ」は末永く語り継げる地域の財産になった。