鉄とサッカーのまち、茨城県鹿嶋市には名誉市民が2人いる。
一人は故日向方齊(ひゅうがほうさい)さん。住友金属工業(現在の新日鐵住金)が1968年、鹿島臨海工業地帯の中核企業として進出した時の社長だ。
もう一人はサッカーの元ブラジル代表選手、ジーコさん(65)。91年、住友金属の蹴球(しゅうきゅう)団(サッカー部)に入団し、蹴球団がJリーグの鹿島アントラーズとなる過程で世界に通用するチームに育てあげた。いわば鹿島のサッカーの父である。
Jリーグのお膝元となったのを機に当時の鹿島町は95年、大野村と合併して現在の鹿嶋市となった。
鉄道路線から外れ、陸の孤島のような状態に
実はもう一人、鹿島のサッカーの父と言える人物がいる。
元中学教師の故石津實(みのる)さん(2003年、67歳で死去)だ。もし、石津さんがいなければ、同市は「サッカーのまち」になっていなかったはずだ。アントラーズの歴史も違っていただろう。だが、その功績はあまり知られていない。
話は高度成長期にさかのぼる。
鹿島は古来、鹿島神宮の門前町として栄えた。太平洋と北浦に挟まれた半島のような地形で、江戸時代までの交通は舟運だった。ところが明治時代に鉄道路線から外れるなどしたため、陸の孤島のような状態に陥ってゆく。
それゆえ、東京から約80キロメートルしか離れていないのに広大な土地が残された。水はふんだんにある。このため京浜・京葉工業地帯に次ぐ、首都圏で最後の臨海工業地帯の候補地として白羽の矢が立った。鹿嶋市から神栖市にかけて約170社が立地していくのである。
しかし、当時の鹿島町長を先頭に、農家を中心とする反対運動が起きた。今春、鹿嶋市役所を政策企画部長で退職した大川文一さん(61)は、祖父が「鹿島開発絶対反対」と書いたベニヤ板を自宅の門に掲げていたのを覚えている。
「祖父の世代には、公害などへの不安がありました。しかし、父の世代は開発をチャンスととらえる人が多く、世代間で葛藤が生まれました」
それだけではない。68年に企業進出が始まると、都市部などから大勢の人が転入した。鹿島町の65年までの人口は1万6000人程度だったが、75年には約3万7000人となり、10年間で2.3倍に増えた。
「児童数が1300人を超えた新設小学校では、父母の出身地で日本地図が北から南まで塗れたそうです」と、大川さんが解説する。
「皆で一つのボールを追いかけるサッカーで融和を」
だが、「こんな田舎に来させられた」と不満を募らせる「新住民」と「俺達が土地を提供したから働く場が得られたくせに」という思いが捨てられない「旧住民」との間で、感情的な対立が生まれていった。
町役場は「一緒に文化活動をすれば理解が深まる」と、中央公民館を建てた。
「書道や絵画などの講座を開きました。でも、都市型の教養講座の色彩が濃く、旧住民が普段着で行けない雰囲気がありました。そこで各小学校を間借りして、気軽に歩いて行ける公民館活動を行いました」。大川さんはこの事業の担当だった。
その頃、「皆で一つのボールを追いかけるサッカーで融和を」と発案した人がいた。石津さんだ。
「新住民の方々は、中には関西弁をとうとうと使い、地元民からは全くの異邦人扱い。逆に相手は、茨城弁丸出しの田舎住民が異様に映ったことであろう。いずれにしても、一寸(ちょっと)でもよいから話し合うきっかけのようなものがまるでない」「(融和には)利害関係がないスポーツが一番」と、小冊子に書き残している。