そんなはずはない、と思った。

 擦れ違う人が、誰も彼も「こんにちは」と挨拶したがっているように見えるのだ。

イラストレーション:溝川なつみ

 私は「地方」を歩く時、その土地の人がどれくらい挨拶を返してくれるかを、地域を測る指標の1つにしている。読み取れるのは親しみやすさだけではない。表情やちょっとした会話で土地柄が透けて見える。

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 ただ、この手法は都市部では使えない。雑踏で挨拶して歩くわけにはいかないからだ。

 大分県臼杵(うすき)市は人口3万8000人ほどのまちだ。その中心街で、旅の者に挨拶をしてくれる人など、いるはずがないと思い込んでいた。

 だが――。試しに会釈をしてみた。老婆が微笑み返す。「今日は温かいねぇ」と、話しかけられた。

 驚いた。人々はやっぱり挨拶をしたがっていたのだ。「市」という名がつく土地の中心街では、初めての経験だった。この日、歴史的な建造物を巡り歩いた私は、100人ほどと挨拶を交わすことになる。

 臼杵は古いまちだ。

 戦国大名の大友宗麟(そうりん)が城を築いた16世紀から、旧城下町の町割(まちわり)は変わっていない。第2次世界大戦でも城下は米軍の空襲に遭わなかった。

 江戸時代だけでなく、明治、大正、昭和の木造建築物が軒を連ねる。まちを歩くと、過去に吸い込まれてしまいそうになる。

石畳と古い家並みが続く(臼杵市二王座)

「道路の形状は中世のままです。人が擦れ違えるだけの幅しかないので触れ合いが生まれます。だから人情味のあるまちになったのです」。臼杵市歴史資料館の菊田徹館長(69)が「挨拶」の理由を説明する。

 古い家並みと人情味。

 逆に言えば、高度経済成長期後の「発展」から「取り残されたまち」とも言えるだろう。ならば、焦って開発に突き進むのではなく、時代がまちに合ってくるまで、待ち、残そう。1997年に就任した後藤國利・前市長はそうしたまちづくりを「待ち残し」と呼んだ。

 あれから時代は変わった。

「時が巡り、周回遅れのトップランナーのような存在になったのかもしれません。懐かしい日本の風景を求める人や、海外からのお客さんからは、高い評価をもらえるようになりました」。同市の一級建築士、板井登喜雄さん(62)は目を輝かせる。板井さんは築200年以上の旧武家屋敷を改修して住んでいる。

 まちが注目されるに連れて、市全体の移住者が増えた。「約3年前から毎年200人ほどが移住して来ています」と、市役所の秘書・総合政策課、広瀬隆課長代理(48)は話す。

 嘘のような話だが、「臼杵の歴史景観を守る会」の会長で、県職員の齋藤行雄さん(57)は「たまたま、まちで会った人に、何時間かガイドをしてあげたら、臼杵が大好きになったそうで、移住してくれました」と笑う。齋藤さんの家は、国登録有形文化財である。

 それにしても、高度成長期からバブル経済期にかけて、日本が開発一辺倒だった時代に、なぜ臼杵市では「待つ」ことができたのか。

 臼杵で「まちを残そう」という住民運動が始まったのは昭和初期だ。

 1934年、郷土史の研究団体「臼杵史談会」が、歴史遺産の保護を訴えた。「『市街美』という言葉を使い、歴史遺産を残すことが自分達の誇りになる。それがまちの美観を向上させると唱えたのです」と齋藤さんは話す。

 この時期に歴史遺産の保存に取り組んだ団体は全国でもあまりない。臼杵史談会は「残したい建物」に標柱を立てるなどして活動したものの、戦争で中断した。

 終戦後の54年、臼杵史談会の会員らが「臼杵市文化財保存会」を結成した。会では保存すべき建物を独自に指定するなどしたが、この中には「明治の棟梁」が建築した昭和初期の建物も含まれていた。建ててから30年も経っていない建築物を、歴史遺産として保存しようというのは、今ですら先進的だ。