イラストレーション:溝川なつみ

 地元では親しみを込めて「清水(しょうず)」と呼ぶ。福井県大野市の市街地で無数に湧く地下水のことである。

 その一つ、「中野清水」は長さ50メートル、幅20メートルほどの池だ。底まで透き通っていて、モワモワと水が湧くのが見える。

 ここには水温が20度以下でしか生きられない川魚のイトヨが棲んでいる。体長約5センチ。オスが「巣」を作って子育てをする珍しい魚だ。環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧種に指定されている。

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 そのイトヨがちょうど繁殖期を迎えていた。赤い婚姻色に染まったオスが「巣」を守る。その健気な姿を観察していたら、そこが住宅街であることなど忘れてしまう。

50センチ程度掘れば水が出る場所も

 大野は、1000メートル級の山々に囲まれたまちだ。直径10キロほどの盆地に、九頭竜(くずりゅう)川など4本の一級河川が流れ込む。

 冬、山には何メートルもの雪が積もる。それが少しずつ解けて地下に浸透し、河川とは別に、盆地の下をとうとうと流れている。

 その地下水位は、現在も中心市街地となっている旧城下町が最も高く、50センチ程度掘れば水が出る場所もある。旧城下町はこれを利用して造られた。

 戦国時代、越前の領主だった朝倉義景が織田信長に討たれた後、大野に城と城下町を造ったのは、信長に仕えた金森長近(かなもりながちか)だ。1576年から5年かけて築城し、中野清水よりひと回り大きい本願(ほんがん)清水を水源にして城下に上下水道を整備した。

 豊富な地下水。しかも軟水で美味しい。これは440年後の今も同じだ。だからわざわざ料金のかかる市の上水道を引く家は少ない。各戸で浅井戸を掘り、飲み水も、風呂の水も、全て地下水を使う。同市の上水道普及率は2割程度でしかない。

「人口約3万3000人に対して8000~9000本の井戸があります。上水道を引いているのは、主に地下水が乏しい市の周辺部です。このような自治体は、市レベルでは全国にありません。普通のまちでは、災害など万一のために井戸を維持するのでしょうが、大野の市街地では万一のために上水道を引くのです」と、帰山寿章(かえりやまとしあき)・水への恩返し財団事務局長(55)は話す。同財団は水に関連した社会貢献事業を行うため、市が設立した団体だ。帰山さんはこの3月まで市の湧水再生対策室長だった。

高度経済成長期から井戸涸れが始まった

 余りある水の恵み。だが、危機もあった。高度経済成長期から井戸涸れが始まったのである。

 1971年、192本の井戸が涸れた。77年には約1000本が涸れ、さらに81年、82年、84年と大量の井戸涸れが続く。

「市内には繊維工場が200ほどありました。水を大量に使う織機が開発され、地下水の汲み上げが急増しました。さらに人々の生活様式も変化し、水の使用量が増えました。また、地下水の温度は1年を通じて15度前後なので、屋根に流せば雪下ろしの必要がなくなります。一時は1000軒ほどが地下水を流していました」と、帰山さんが原因を説明する。