「気づいた時には汚泥がたまり、雑草が生い茂っていました」
江戸時代の水道水源だった本願清水も78年に涸れた。イトヨの棲息地として国の天然記念物に指定されていたにもかかわらず、ほんの水たまりになってしまったのである。
「わずかに生き残ったイトヨを守ろう、地下水を守ろうと市民から声が上がりました。地下水保全の動きが住民主導で全市に広がりました」と、帰山さんは振り返る。
中野清水はその頃、汚泥の堆積するごみ捨て場になっていた。
近くに住む元市職員、島田健一さん(65)は、寂しい思いで見つめていた。「かつては農作業の後で水を飲み、野菜を洗い、スイカを冷やす、憩いの場になっていたのです。私も魚を獲ったり、学校帰りに喉を潤したりした思い出があります」。
しかし、冷蔵庫が普及するなどして生活は清水と切り離された。それと同時に周囲の宅地化が進み、生活排水が流れ込んだ。
「気づいた時には汚泥がたまり、雑草が生い茂っていました。一部を勝手に埋め立てて、駐車場にしていた人もいました」と島田さんは語る。
「昔の姿に戻そう」。何度も住民から声が上がった。だが、あまりに状態が酷かった。それを実行に移したのは96年、島田さんら40~50代だった地域起こしグループだ。
「仲間の一人が土木建設業を営んでいて、重機やダンプを無償で出してくれたのです」
まず重機で汚泥やゴミを運び出した。ダンプで50台以上になった。人が入れるようになると、汚水に腰まで浸かって手作業でかき出した。1日作業すると、我慢できないほど体が臭う。これを日曜日ごとに、約40人の仲間で行ったのである。
それを見ていた女性達が農作業姿で汚水に入り、手伝ってくれた。子供達も加わった。そうして70人ほどに増えていった。
成果はみるみる上がった。毎分3トンもの水が湧くので、作業をするだけきれいになった。
翌年、「自然を失うような愚かなまねは2度と繰り返すまい」と、「中野清水を守る会」を結成した。イトヨも飼育していた中学校に放流してもらい、復活させた。
島田さんは4代目の会長である。
故郷を離れて水に泣き、故郷に帰って感動する
こうした市民活動に歩調を合わせて、市も様々な施策に取り組んだ。
地下水保全条例を策定した。市街地などでは直径5センチ以上の汲み上げポンプを登録し、使用量の報告を義務化したのである。融雪装置の使用も禁止した。水が地下に浸透する地区では、196ヘクタールのブナ林を涵養林として購入し、冬季には30ヘクタールの水田に水を張ってもらっている。上流にダムができて河道が固定され、水が浸透しにくくなった河原は、雑木を切り払って掘り返すなどした。
市内の32の井戸では毎朝、地下水位を観測しており、そのうち市街地の16井戸は市民に手で測って報告してもらっている。
朝倉義景の墓がある「義景公園」には、「義景清水」が湧いていて、イトヨが棲んでいる。保存会の事務局を務める杉本政司さん(69)は市の計測員の一人だ。毎朝6時、観測井戸のパイプに計測機器を垂らす。
取材に訪れた日、午前6時の地下水位は地表から61センチだった。それから3時間後の午前9時、改めて測ってもらうと62センチになっていた。「すごいでしょう。朝の炊事で1センチも下がったのです。変動には必ず原因があります。ただ、私達は水を無駄遣いしません。一度は涸渇させたからこそ、命の水は自分で守るという自覚が芽生えたのです」。繊維産業に従事してきた杉本さんだけに説得力がある。