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 臼杵の人々が、こうした開明的な行動を取れたルーツは、江戸時代にあると、菊田館長は見ている。菊田館長は臼杵史談会の現会長だ。

「江戸時代の大分県は小藩が分立していました。その結果、県としての特徴がなくなったと言われますが、地域ごとの特色は豊かになりました。現在の臼杵市を中心とする臼杵藩は5万石と貧乏でした。その分、人材育成に力を注ぎます。藩校を設立し、寺子屋教育なども盛んに行われました。そうした中から、三菱の“大番頭”になった荘田平五郎や銀行幹部など、明治の日本の骨格を作った経済人らを輩出しました」

 臼杵市には市立図書館が2つある。1つは大正時代の1918年、荘田氏が建てた木造建築だ。当初は財団法人が運営していたが、後に市に寄贈した。もう1つは69年、地元の実業家が建築して寄贈した。2つもの寄贈図書館がある自治体は全国でも珍しい。

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 こうして明治時代以降も、教育熱心な土地であり続けた。それだけに臼杵の人は議論を好む。

「ちょっと待て、と必ず反対の声が上がるのです。これを排除しないで、皆で議論するのが臼杵らしいところです。他にも質素倹約、新しいものにはすぐに飛びつかないなどといった、江戸時代から受け継いできた臼杵気質(かたぎ)が、歴史的な建物を残していくのにプラスに働いたのだと思います」と菊田館長は語る。

誇りがあればまちは残せる

 75年、齋藤さんが会長を務める「臼杵の歴史景観を守る会」の前身となる団体ができた。会では83年、歴史的なまち並みの保存を議論する全国大会を誘致し、市役所や多くの住民が「臼杵のまち」の美しさを自覚するきっかけになった。

 この頃、地場の醤油メーカーの後継者が帰郷して家を直した。

「かなり手を入れながらも、古くからあった蔵をいかして住宅を改修し、こんなやり方があったのかと私達に大きな影響を与えました」と、一級建築士の板井さんが振り返る。

 作家の故野上弥生子さんは、この醤油メーカーの親類の酒蔵で生まれた。生家は同じような手法で改修され、「野上弥生子文学記念館」となった。

 こうした動きに突き動かされるようにして、市はまち並み保存に乗り出していく。旧城下町で新築・改築を行う場合、市と協議するよう求める条例を定めるなどしたのだ。

 さらに市が取り組んだのは、保存が難しくなった建物の公有化だ。

 旧藩主の下屋敷、住職が不在になった寺、旧武家屋敷、旧醤油蔵と工場などを買収しては整備し、それらを結ぶ道を石畳にした。

 すんなりと進んだわけではない。駐車場化のために解体される寸前で市民の反対運動が起き、なんとか保存できた建物もある。荘田氏が寄贈した図書館は現在、国登録の有形文化財になっているが、市が周辺開発の一環として取り壊しを計画したこともある。議論好きで、誰かが反対の声を上げる臼杵だからこそ、残った建物が多い。

国宝・磨崖仏の首を載せるまでに市をあげた議論をした

 ところで市民的な議論と言えば、磨崖仏(まがいぶつ)を巡るそれは圧巻だった。

 同市では、岩壁に刻まれた61体の石仏が有名だ。12~13世紀の作と推定されているが、このうちの1体はいつの時代からか頭部が落ちていた。そのままでは風化が進む。市は仏師が彫った当時の姿に戻そうと「復位」を計画したが、落ちた状態に愛着を持っていた市民から反対の声が上がった。市は90年から約3年間にわたり、88回もの説明会を開く。これを市の係長として担当したのが菊田館長である。

「飲み屋に至るまで、臼杵じゅうで議論になりました。最後は復位でまとまるのですが、美術的な価値の向上だけでなく、市をあげた議論も評価されて、修理の1年後に国宝となりました」と、菊田館長は語る。