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ボールを追いかけると雑念が吹き飛ぶ

 石津さんにサッカーの競技経験はなかった。勤務先の校長が師範学校時代のサッカー選手で、部活動指導などの時に教えてもらっただけだ。「それでも世界のサッカー情勢や、どれほど人を魅了するスポーツであるかは、よくご存じでした」と、大川さんは振り返る。

 69年、石津さんの呼び掛けで、鹿島サッカー協会ができた。現在の協会は鹿嶋市と神栖市に分かれているが、当初は工業地帯に重なる両市を中心にしたエリアだった。

 競技経験者が少なかった鹿島で選手を集めるのはひと苦労だった。それでもなんとか進出企業で2チーム、地元で2チームを結成し、計4チームで試合をした。

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 翌年は7チーム、翌々年は11チームと増えていく。

 石津さんが監督を務めたのは、最も早く設立された地元の「鹿島サッカークラブ」だ。大川さんも属した。しかし教員、大工、銀行員、農業、商業と職業がバラバラで、仕事の都合で誰が試合に出られるかは、当日まで分からなかった。人数が足らなくなり、練習中の中学校のサッカー部員を助っ人としてかき集めたこともある。

 今春まで鹿嶋市サッカー協会会長だった加藤満さん(67)は協会設立の翌年に加盟した日本合成ゴム(現在のJSR)のサッカー部出身だ。

 宮城県仙台市生まれ。高卒で就職後、初任地の三重県四日市市で入部した。初心者だったが、球拾いをしても面白いと感じるほど、サッカーが好きになった。

 鹿島には21歳の時、プラント開設要員として配属され、すぐにサッカー部を作った。約20人が集まったが、経験者は自身を含めて3人だった。「三交代勤務だから、練習には一部しか参加できません。仕事の後、まだ工場が着工していなかった土地で、車のライトをつけてボールを蹴りました。どのチームも同じような状態でした。試合では互いにどこに素人がいるか、見つけて攻撃するのが作戦でした」と笑う。

「新旧住民の融和のため」とは聞いていたものの、意識することはなかった。ボールを追いかけると雑念が吹き飛んでしまう。各チームの代表が集まって協会誌を出したり、関東少年サッカー大会の開催を引き受けて皆で準備したりしているうちに、どんどん仲良くなっていった。

新住民だからこそ地域の魅力が見える

 鹿島サッカー協会は、設立翌年から中学生の大会を開いた。さらに小学校単位でサッカースポーツ少年団を設立し、指導に当たっていった。

 石津さんは著書に「鹿島開発は、確かに経済効果が住民と地域を豊かにした。土地提供による大金取得は、普段から堅実な家庭を除けば、一般家庭の中には歪みをもたらす場合が少なからずあった。街が活況を呈する一方で、子どもたちが金銭を湯水のように浪費したり、非行に走っていったりして補導が繰り返された」と書いており、サッカーに教育効果を期待したようだ。

 ただ、これが鹿島をサッカーのまちにする原動力の一つになった。

「少年団に9割の子が入る小学校もありました」と大川さんは語る。

 少年団出身の子が、高校で全国大会に次々と出場していった。

 住友金属の蹴球団は75年、鹿島に移ってきていたが、これを母体にして鹿島アントラーズが設立されたのは91年だ。

大木に囲まれ神秘的な鹿島神宮

 当時の蹴球団は日本リーグ2部の実力しかなく、地域の人口も他チームに比べて極端に少なかったので、経営が成り立たないと見られていた。川淵三郎・元Jリーグチェアマンは、地元に加盟を諦めてもらうためにわざと1万5000人収容の屋根付き専用スタジアムの建設という難題を条件にした。なのに、県は建設を決め、大逆転で参加が決まった。

 県が建設費約84億円を捻出できたのは、鹿島開発で住民から買い取った土地を売却した利益を特別会計に貯めていたからだ。神栖市側には県の第3セクターがホテルやオフィスが入居する14階建てのビルを建設していたが、鹿嶋市側には何もなかったという事情もあった。

 93年、アントラーズはJリーグ初年度の第一節で優勝するなど大活躍し、鹿島の人々を熱狂させた。

「年寄りも若者も、誰もが一緒になって応援しました。鹿島開発が引き起こした世代間の葛藤や新旧住民対立に一つの区切りがつけられたのです」と、大川さんは語る。