W杯後もサッカー熱は冷めることがない
鹿島のサッカースタジアムは02年、日韓共同開催のワールドカップでも会場になった。その前年、同会場で日本とブラジルの代表戦があった。加藤さんは石津さんが「こんな試合が見られるなんて」と、涙を流していたのを記憶している。
石津さんはワールドカップの翌年、病気で亡くなった。
その後も鹿嶋市民のサッカー熱は冷めることがない。
アントラーズのゴールキーパー・曽ケ端準(そがはたひとし)選手(38)を生んだ波野サッカースポーツ少年団では、28人が波野小学校で週に3日練習をしている。「サッカーは子供に最も人気のあるスポーツです。歩いて行けるスタジアムでプロの試合が見られるし、市が無料で試合を見られるキッズパスを小学生に発行しています。サッカーをやっていた親も多いので、自ずとサッカーが好きになりますよね」。母親達は口をそろえる。
監督は総監督、低学年担当、高学年担当の3人、コーチは10人と手厚い。「鹿嶋市のサッカーの特長は、皆が熱いことです」。低学年の監督、大川雅洋さん(39)は汗をだらだらと流しながら目を輝かせた。
新住民流入が生んだのはサッカーだけではない。歴史的な魅力再発見にもつながった。
住友金属の研究者だった西岡邦彦さん(75)は、佐賀県出身だが鹿嶋市に住み着いた。退職後、地域を改めて見ると、鹿島神宮や鹿島出身の剣豪・塚原卜伝だけでなく、古墳や神社仏閣に豊かな歴史があることに気がついた。そこで仲間と「鹿嶋神の道運営委員会」を作り、歴史的なポイントを4〜5時間かけて歩くルート3つを設定した。道しるべや案内板を立てると、年間1万人が訪れる人気コースになった。
「案内板でいわれを初めて知る近隣の住民もいます。旧住民が見過ごしている鹿島の魅力を掘り起こしていきたい」と西岡さんは意気込む。
ルートで巡る地点の一つ「明石の百庚申(こうしん)」は、60日に一度回ってくる庚申の日に、健康長寿を願って庚申講を行った記念の塔だ。江戸後期の作で、100基もある。だが、11年の東日本大震災で倒壊し、その後は藪に覆われて荒れ放題になっていた。これを西岡さんらが復元整備し、市がこの4月に文化財指定した。
西岡さんは他にも民話の出版、鹿島神宮参道の空き店舗への出店などにも取り組んでいる。
「新旧住民」の混在は軋轢ではなく、むしろ財産になった。視点の違いが次は何を生み出すだろうか。
(写真=筆者)