窓の外がパッと明るくなった。
直後にドーンと大音響がする。ガラスが一斉に割れて飛び散り、砂ぼこりが入ってきた。
「土砂崩れだ」。浅沼恭代さん(46)はそう思った。が、家の外を見てもそれらしい土砂はない。
「何が起きたのか」。わけが分からないまま、「とにかく逃げなければ」と家族6人で車に飛び乗った。
岡山県総社(そうじゃ)市下原(しもばら)。7月6日午後11時35分頃のことだ。
浅沼さん一家は、取るものも取り敢えず逃げたのではない。実は避難の準備ができていた。
ただ、警戒していたのは豪雨災害だった。5日から激しくなった雨が6日になっても降りやまず、河川の氾濫や裏山の土砂崩れを心配していたのだ。いつでも逃げられるよう、自治会が配った避難袋に、懐中電灯、助けを呼ぶ時に吹くホイッスル、飲み物、着替えを入れていた。
そうした時に大音響がした。
後で知ることになるのだが、下原の外れにあるアルミ工場が爆発事故を起こしていた。工場の横を流れる川があふれて、溶解炉に水が入ったらしい。下原には約110戸、350人ほどが住んでいたが、従業員は何も知らせずに逃げていた。
長さ6メートルほどのH鋼、約4メートルの金属製ダクト、大人が2人がかりでも持ち上げられないほど重量のある金属塊、ほかにも火の玉のようになった破片が数え切れないほど飛来した。奇跡的に家を直撃せず、20人弱が軽いケガをした程度で済んだが、衝撃波は約一キロメートル先の家のガラスまで割った。
それだけではない。下原は翌日にかけて、西日本豪雨の河川氾濫で最大2.5メートルほど浸水する。
こうした二重苦の災害にもかかわらず、犠牲者はゼロだった。
同じ河川の氾濫で市街地が丸呑みになり、51人も亡くなった倉敷市真備(まび)地区とは対照的だ。両地区は隣接しており、家が切れ目なく続いている。なのに何が違ったのか。それは日頃の備えと意識だろう。
下原で災害対策の要になってきたのは自主防災組織(略称・自主防)だ。万一の時に、住民が力を合わせて生き延びるための「共助組織」で、全国的に自治会単位で作られている。下原では東日本大震災の翌年の2012年4月に結成した。
「東日本大震災が他人事には思えなかったのです」と、自主防の副本部長、川田一馬さん(70)は話す。
下原は、3本の河川が交わるような土地にある。「岡山三大河川」の一つに数えられる高梁(たかはし)川、その支流の新本(しんぽん)川と小田川だ。西日本豪雨で決壊し、真備で多くの命を奪ったのは小田川である。
どの川も氾濫の危険性を孕(はら)んでおり、「1893年に高梁川が切れた時には、下原から真備にかけて浸水し、下原の120戸のうち112戸が流されて、32人が犠牲になりました」と、一馬さんが話す。下原在住の小西利一・総社市議(64)は「氾濫の跡には、高梁川が運んできた砂で、高さ3〜4メートルの山がいくつもできました。それが今でも真備には残っています」と語る。
自主防はまず避難路を整備した。集落の背後に伊与部(いよべ)山(標高105メートル)があり、地区のどこからでも直線の最短距離で登れるよう3本の避難路を指定した。登りにくい道は、皆でコンクリートで固め、石段を作るなどした。