嫁いで10日ほどしたある日の午後、千代は学校の帰りに、錦帯橋を渡らなかった。その橋を渡れば、嫁ぎ先の鉄砲小路に着く。足は川沿いに、川西の実家へ向かっていた。父は病み衰え、幾度も血を吐いていた。娘に足を撫でるよう頼んだが、なぜ鉄砲小路から戻ったのかと問うことも、早く帰れと命じることもなかった。このまま、この家にいてもよいのだ。そのときの気持ちを、自伝は隠さず書き残している。

「父がこんなに病み衰えているのを見て、それを悲しむより、もう、あの、鉄砲小路の家へ帰らなくても好いのだと言うことが、何とも嬉しかったのを私は忘れない」

その千代が、翌日には、三里、約12キロ離れた阿品のお大師様へ、父のために参っている。結婚から逃れたいこと、父を恐れること、父の快復を祈ること。少女の中で、三つの感情が同居していた。

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千代が鉄砲小路の家で暮らしたのは、ほんの10日ほどだった。夫は千代を好まず、夜ごと外泊を重ねた。千代は夫の日記を盗み見て、自分が嫌われていることを知ったという。父の看病を口実に、千代はそのまま実家に留まり、以後は川西の家で継母や弟妹と暮らして、女学校へ通い続けた。

父の死は「何となく嬉しかった」

父が亡くなったのは1913年2月8日、57歳。

「父親が死んだ。私は涙を滝のように流したがやはり何となく嬉しかった。私はもうどんなことでも出来る」

涙と解放感。千代は後年、随筆にその時の心境をどちらも隠さず書き残している。もっとも、家の空気はすぐには変わらなかった。

「父が死んで、時計の間の父の寝床は片付けられた。父がいない。私も子供たちも、なかなかこのことが呑み込めなかった」

そうした中、変化は思いがけない形でやってくる。

ある日、飼っていたカナリヤがくちばしをくっつけているのを、子どもの一人が見つけて笑った。小さな笑いだった。だが、誰もとがめる者がいないと分かると「今度は大声を上げて、あはははは、あはははは、と続けて笑い転げるのであった」