父の死を笑ったのではない。きっかけは鳥の仕草にすぎない。普通の家なら何でもないその笑い声が、この家では事件だった。
家の中で笑えるようになっても、自由が完全に戻ったわけではない。たとえば、父に禁じられていた芸人見物である。近所に芸人が来たとき、子どもたちは互いに「うちじゃあ、見には行かんのじゃ」と言い合って、すぐには出て行かなかった。最初に飛び出したのは長男の薫で、ほかの子どもたちはそれに続いた。命令した本人が死んでも、習慣は命令より長生きする。
継母の意外な趣味
父の死後、変わったのは子どもたちだけではない。継母は千代を浮かれ節(浪花節)を聴きに連れて行くようになり、家事をしながら自分でも歌った。千代はこう書いている。
「その唄声もまた、この家の中の解放を意味していたのである。私もまた一緒に、その唄声に唱和していた記憶がある」
自伝によれば、継母は義済堂という糸とり工場へ働きに出た。暗いうちに起き、前夜の冷たいご飯を弁当箱に詰め、子どもたちを寝かせたまま出かけた。のちに、千代が学費のために苦労をかけたと詫びると、彼女の答えは意外なものだった。
「何の、お前の学校のためかいの。わしゃあ、唄を歌うのが好きでのう。いつでも糸をとりながら、声を上げて唄を歌うたもんじゃが、みんなが、わしの声に聞き惚れてのう、それが自慢で、糸とりに行ったんでよ」
少なくとも千代は、継母の働く姿を、娘のための犠牲としてだけは描かなかった。彼女の言葉を、娘への気休めとも受け取らなかった。「しん底、自分の唄が自慢で、それで義済堂へ通ったのに違いない、と、いまでも私は信じている」
父の死で得た文学を楽しむ自由
継母の楽しみは、物語にも及んだ。新聞を持って「錦見」という煮売り屋へ行き、年老いたお内儀に『嫁ケ淵』『里見八犬伝』などの続き物を、ときには節をつけて読んで聞かせた。「いつでも、その日の新聞の読み賃として、売り物の肴を丼に入れてくれることもあり、ときには、銭をくれることもあった」そして「帰りの足は軽かった」。娘が原稿料で身を立てるより前に、この家では、物語を語ることが楽しみと報酬に結びついていたのである。