「お父さん、あのビデオ反則や」。
娘は既に泣いている。
今年のオリックス最終戦は本拠地京セラドーム。試合後には小谷野の引退セレモニーが行われた。セレモニーでは冒頭、引退記者会見の様子からはじまる、これまでの小谷野の活躍を振り返るビデオ映像が流された。どんなに大差の試合でも「今日のナンバーワン!」の一言と共に、恰も好試合であったかのようなビデオ映像を流すオリックスの広報である。十分すぎる実績を積んだ「熱い男」、小谷野の選手生活を振り返るビデオ映像で、うちの娘を泣かせるくらいのものが作れない筈がない。
とはいえ、隣で見ている父親 -- つまり筆者である -- にとっても、特別な思いはあった。思い返せば小谷野がFAでオリックスにやって来た時、筆者はそれを必ずしも喜んだ訳ではなかった。ベテランのFA選手の加入は、時に、生え抜きの若手から活躍の場を奪う事になり、だから長年一つのチームを応援してきたファンは、必ずしも彼らの加入を歓迎しない。ベテランの小谷野ではなく、将来ある伏見や西野を使えばいいのに。そう思いながら試合を見ていた時がなかったかといえば、正直、嘘になる。
にも拘わらず、筆者がこの日の小谷野の引退セレモニーを、特別な思いで見ていたのには理由があった。それは筆者が彼と同じく、長らくパニック障害に苦しんでいるからである。
パニック障害の苦しさ
既にこの「文春野球コラム」でも幾度も触れられている様に、小谷野がパニック障害に苦しんできた事は有名だ。そして、その小谷野をどん底から助け出したのが、同じ日に監督の職を退いた福良である事もよく知られている。小谷野は自らの障害に如何に立ち向かい、福良はそれをどう手助けしたのか。筆者はその事がずっと気になっていた。
多くの病気がそうであるように、病気に苦しむ人の気持ちは、他人にはなかなかわからない。そしてそれはメンタルに関わる病気では一層そうだ。パニック障害では、ある日突然、それまで当たり前に出来ていた事ができなくなる。例えば、筆者の場合、それは特定の人達と会う事であり、また特定の場所に行く事である。この場合、そういった人や場所は、パニックを引き起こす「引き金」の様な存在であり、我々に特定の記憶やイメージを呼び起こす。所謂フラッシュバックという奴がそれである。そしてそこで人は、この過去の嫌な思い出と共に、激しい動悸に見舞われ、或いは過呼吸へと追い込まれる事になる。
その姿は傍から見ている人からすれば、奇妙なものだ。何故ならば、多くの場合、その時点でその人が直面している課題は、単純な事に過ぎないからだ。それは例えば、野球選手なら目の前に転がって来た三塁ゴロを捕球して、ゆっくりと一塁へと送球する事であり、それが同じことを何千回、何万回とこなして来たプロ野球選手にとって難しい筈がない。
あれ、笑顔ってどうやって作るんだっけ
筆者の例であれば、それは例えば、特定の場所で行われるパーティーに行き、苦手な人々と挨拶をする事である。そこではファインプレーを求められている訳でも、華麗なスピーチを要求されている訳でもない。ただ一瞬だけ、辛い記憶を封印して、それまでずっとやって来たように、ボールを拾って投げ、パーティーのグラスを傾ければいいだけなのだ。
しかし、それができない。
通常の場合、人間は自らの行動の多くを無意識のうちにルーティーンとして処理している。パーティーの扉を開ける時に、それを左右どちらの手で開けるのか、或いは苦手な人々の前で、彼らに何メートルまで近づいたら、どれだけの大きさで声をかけるのか、等という事を、通常の状態で意識して行う人はいないだろう。でもパニック障害に陥った人は、そうではない。どんな顔をしてパーティー会場に入り、どんな声を誰にどうやってかければいいのか。そもそも今着ているスーツはこの場にふさわしいものなのか。あれ、笑顔ってどうやって作るんだっけ。
当然、その様な沢山の事が、パニックに陥った精神状態で瞬時に処理できる筈がない。だからこそパニックは、我々の前に、過去の思い出したくもない記憶と共に現れる事になる。結局、どうせ今回も失敗し、周囲に迷惑をかけ、バッタの様に地面に這い蹲り、許しを乞う事になるに決まってる。そうしてパニックは更に深くなり、筆者はパーティー会場の前で立ち尽くす。やっぱり俺はここには入れないんだ。知ってたよ、そんな事。