なぜ左派がこんなにも広がらないのだろう?

ブレイディ イギリスのデモは、楽しくてゆるい感じですよね。eriさんは、ファッションとかにも関心が高くて、お洒落じゃないですか。日本だと運動でファッショナブルにしていると、「資本主義のしもべ」みたいに言われがちですよね(笑)。いまだに厳しい方もいらっしゃるから。

 でも、洋服も好きだし音楽も好きだし、それを政治とくっつけちゃいけないなんてことは決してない、というのを自然体でやっているのが、すごくいい。しかも女性がたくさん参加するムーブメントをつくれているのは、昨今の欧州で排外主義や政治的な混乱に対して、多くの女性たちが声を上げている流れにもつながっている気がします。

eri 新著の『それはどこでも起こり得る』ですごく面白いと思った部分のひとつが、「個人的なことは政治的なこと」という70年代フェミニズムのスローガンが、今はちょっと違う解釈ができるのではないかという考察でした。

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 私が感じているのは、SNSでも左派的な人が何か主張すると、それこそ資本主義的だとか、過去の発言と矛盾しているだとか、いちいち揚げ足を取られてしまうこともあったり。近しい思想を持つ同士でもそういう潔癖な厳しい目線があって、それはすごく発言の自由や、自分自身のあり方の自由を萎縮させていってしまっていると感じることがあります。

eri氏

「なぜ日本では、左派がこんなにも広がらないのだろう」と普段から考えているのですが、“キャンセルされちゃう怖さ”が、右派にはなさそうなのに左派にはある。本当は「今日食べたご飯が美味しかった」「そうそう、あの政治家のあの発言を聞いた?」みたいな感じで、普段の生活の中で自由に話されていいはずのことが、特別視されているんですね。

 だからこそ、私たちがやっているような、楽しげなデモが広がっていくことで、「別にしゃべってもいいんだ」っていう緩やかなムードづくりが、抵抗するうえで大切な気がしています。

「女性の休日」にみる歴史的な好例

ブレイディ そういう「互いを責めない緩やかさ」はすごく大切で、本書にも書きましたが、歴史を振り返れば、1975年にアイスランドで女性の9割がストライキをした「女性の休日」の例が示唆に富んでいます。デモの集会では、もちろん演説もあるのですが、みんなで歌ったり、演奏に合わせて詩の朗読をしたりしていて、参加者のわくわく感もすごかったと思います。

 女性の権利を社会的に訴えるため、最初にストライキをやろうと言い出したのは尖ったアナキスト系の若い女性たち、「レッドストッキングス」というフェミニストのグループでしたが、保守的な女性たちは「ストライキなんて共産主義者みたいで嫌だ」というんですね。

 でも彼女たちはとことん話し合いを続け、60代の中道的な立場の女性が「だったら女性の休日と呼べばいいじゃない?」と言って、みんなが折り合った。当日の集会でも、労働組合の代表から起業家、主婦まで、まったく違う立場の人が次々とスピーチをする。思想的には対立するはずの人々が、今だったらSNSで争いが勃発しそうな考えも発し合いつつ、それでも互いの持ち場をリスペクトして連帯できた奇跡的な事例です。

eri まさにその記述を読んで、自分たちが気をつけていることと交差するところがありました。例えば憲法をテーマにしたデモでは、政治家にお願いするのではなく、市民の側や有識者の人にスピーチをお願いしましたし、いつもなるべく多様な意見が展開されるといいなと思ってお声がけをしています。

 グループの中で私が仕事の特性上表に出がちですが、「みんなが代表であるし、誰もが代表でない」というスタンスで、有機的にグループが継続していくことを心がけています。

ブレイディ 70年代のアイスランドはまだSNSがないから、つながること自体が大変で、子育てのお母さんたちのグループや、漁村の婦人会のような草の根のグループ――つまり職場でも家庭でもないサードプレイスが互いにつながる糸口でした。eriさんは積極的にSNSを活用されていますよね?