千代の父が通った城下町の遊郭
臥龍橋の錦見側の袂(たもと)から大明小路に向かって延びる道も拡張整備され、臥龍橋通りと呼ばれるようになった。千代が生まれた頃は商店や銀行などが建ちならぶ岩国の中心地としてにぎわっていた。
千代の父・宇野俊次は、毎晩のように臥龍橋を渡って対岸に通ったという。錦見側に渡ると西福寺を右手に眺めながら、大明小路の方角に向かって臥龍橋通りを北上する。西福寺の築地塀の途切れたところで、怪しい雰囲気を漂わせた豆腐屋や町の路地が現れる。
ここは江戸時代からつづく遊郭で、狭い道沿いには妓楼や引手茶屋が隙間なく建ちならんでいる。また、豆腐屋町のひとつ隣に並行してある鍛冶屋町の路地にも料理屋や芸者置屋があり、一角は歓楽街になっていた。千代の代表作である『おはん』の物語も、この界隈(かいわい)が舞台として描かれている。
「私の父親は一種の奇人だった」
妓楼の格子の隙間から、提灯の明かりに照らされた遊女が怪しく微笑みかけてくる。男たちがそれを横目に狭い路地を行ったり来たり。俊次の姿もそこにある。興奮で目を血走らせている他の男たちとは違って、俊次は落ち着き払った余裕の表情で通りをそぞろ歩く。いかにも場慣れした感じ。彼にとってこの歓楽街は、家の近所を散歩するようなもの。放蕩者(ほうとうもの)として街でも有名な男だった。
「私の父親と言うのは、バルザックかドストエフスキーの小説の中にしか出て来ないような、一種の奇人、乃至(ないし)は狂人だったと思う」
千代の自叙伝『生きて行く私』にはこのように書かれている。かなりエキセントリックな性格だったようで、同居する家族の心が休まることはない。
俊次は安政2年(1855)の生まれ。千代が誕生した頃すでに40歳を過ぎていたが、生まれてから一度も仕事に就いたことがない。芸者遊びや賭場通い、自分のやりたいことだけをやって生きている。彼が生まれ育った玖珂郡下(しも)久原村(現在の岩国市周東町)は、岩国城下から15キロほど離れた山間の地だが、西国街道が通るにぎやかな宿場町で富裕な商家が多い。代々造り酒屋を営む実家は、そのなかでも指折りの資産家だった。