千早茜のロングセラー『男ともだち』(文春文庫)が映画化された。監督を務めた三島有紀子と原作者・千早茜が、小説と映画の表現のあり方、その違いについて語り合う対談の後編。(前後編の後編/最初から読む)
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文字の得意分野と映像の得意分野の違い
千早茜(以下、千早) (小説の)挿絵をお願いするときもそうですが、私は信頼した人にはなるべく細かな注文をしないようにしています。たとえば挿絵の場合、「こういう絵を描いてほしい」と指示すると、その人にしか見えないものが失われてしまう気がするんです。挿絵には本に書かれていないものが描かれていてもいい。脚本は読ませていただきましたが、何度もかなり細かく改稿されていましたよね。
三島有紀子(以下、三島) はい。映画は、人がペンを持って書く小説とは違い、無関心な機械であるカメラを通して人間を捉えていくものなので、否応なく残酷さが生まれます。その残酷さをどこまで映し、どこに体温を残すかで試行錯誤し、動きや場所、光などを含めたシーンの組み立てを変えていきました。
たとえば、神名がクライアントから望んでいない絵の仕事を断れず描かされる場面があります。FAXで指示が届き、「これを描くのか」と受け入れて、仕方なく描き始めるシーンです。松岡さんに、感情を動きと佇まいで表現したいとお伝えし、表情をはっきり見せないシルエットに近い画で、作り手にとって残酷な時間を共有してもらおうと考えました。
千早 あの場面は残酷でした。他の人と「同じテイストで描いてください」と言われることが、ものを作る人にとってどれほど苦しく屈辱的か。小説なら内面を言葉で描けますが、映画では神名の表情がよく見えないのに、淡々とした動きだけで、やるせなさやクリエイターの絶望が伝わってきました。文字の得意分野と映像の得意分野の違いを見せつけられた気がしました。
三島 神名が一度二階へ上がるのですが、湯たんぽを抱えて戻ってくるのは松岡さんのアイデアです。単に町家が冷えるからというだけでなく、作品を「産む」ために、お腹を抱えているようにも見えます。
千早 私は実際に京都の町家に住んでいたので、湯たんぽが出てきたときは、町家のあの底冷えまで映像から伝わってくる、と感動しました。



