心と向き合うのは難しい。いつも人の心を分析しているのだろう、と言われるが、分析なんてしようとするとむしろ離れていくというのが実感だ。では、精神科医として日々何をしているかというと、相手の心を体感するというのが近い。心というのは、刻一刻と姿を変えていて、それがその人の思考や感情、身体反応や行動、雰囲気まで全体に影響を及ぼす。分析してやろうと捕まえにかかればかかるほど掴めない。それよりも、芸術鑑賞するように、まずは対話の中で相手の話、表情、身振り、雰囲気などをただ体感する。同じ相手に対してそれを繰り返していると、時々で起こっていることが違うので得る体感も異なるが、その中に特有の「その人感」がじんわり見えてくる。そうやって少しずつ、曖昧さに耐えながら相手のことを理解していく。
と、偉そうに書いたが、これは私の理想。実際には「その人感」が浮き上がるのを待てず、体感の中から言葉にできる部分だけをカルテに記し、相手のことを理解できたような気になることも少なくない。保坂和志『ハレルヤ』は、普段自分が言葉に依存しすぎていることに直面し、先ほど述べた理想を思い出させてくれる短編集だった。四つの短編のうち最初の一つ『ハレルヤ』の中で、飼い猫花ちゃんの吹き替えである「言葉を使うから愚図になるにゃりよ、」というセリフは、それまで読みながら何かしら実質を捉えようと焦っていた私の心をハッと震わせた。以降、詳細な猫の描写や亡くなった友人との話を読みつつ、そのもっと上の方にぼんやりとゆらめく、保坂和志という人の「その人感」を体感したような気がする。これは読書というより、作者の奏でる音楽を体感し、その世界や人生に対する感触を共有した、みたいな感覚に近い。言葉にしようとするとこぼれて消えてしまうこの体感。私にも、花ちゃんの「キャウ!」のように、体感に対して嘘のない表現ができたらいいのに。
ほさかかずし/1956年山梨県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。95年『この人の閾』で芥川賞、97年『季節の記憶』で谷崎潤一郎賞、2013年『未明の闘争』で野間文芸賞、18年本書収録「こことよそ」で川端康成文学賞。
ほしのがいねん/1978年東京都生まれ。精神科医。著書に、いとうせいこうとの共著『ラブという薬』。ミュージシャン活動も行う。