祖父・森鷗外の精神を引き継ぎ、終末期医療の現場で、弱き市井の人々に向き合ってきた訪問診療医・小堀鷗一郎さん。新著『人は生きてきたように死ぬ』が話題の医師が語る、ひとりひとりに固有の最期のかたちとは?
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東大外科医から訪問診療医に
――長らく東大の外科医としてエリート街道を歩んでいた先生が、なぜ訪問診療の世界に行かれたのですか?
小堀 転身したのはもう20年も前の話ですが、偶然が重なって他に道がなかったからなんですよ(笑)。僕はもともと東大第一外科で、食道がんの専門医として多くの難手術を執刀してきました。国立国際医療センターの院長をつとめて65歳で定年退職した後、やっぱり外科診療や手術に携わりたくて、埼玉県新座市の堀ノ内病院に赴任しました。
堀ノ内病院の当時の院長兼理事長が、東大第一外科同期の小島武君だったんです。彼は長年地域医療に邁進していて、定年退職した私に「うちに来ないか」と声を掛けてくれました。結局、70歳近くまで、7、8時間かかるような食道がんの手術をやってましたね。
ただ、堀ノ内病院地域医療センターで67歳の頃から訪問診療の仕事にも従事し始めるんです。というのも、僕はずっと手術ばかりやってきた人間だから、外来が苦手。話の長い患者さんとか、25人くらい診ているともうお尻がムズムズしてくる(笑)。
困ったなと思っていたら、たまたまある寝たきりの患者を診ていた小児科の医者が辞めることになり、僕が代わりに訪問診療に行ったんですよ。それがいまの仕事の始まりです。訪問診療をやり出したらあっという間に患者が集まって、多い時には1人で100人の患者を診るようになりました。
――それだけ在宅医療の担い手が地域でも必要とされていたんですね。
小堀 僕にしてみれば、それまで見たことがない世界で、非常に面白かったんですね。末期癌の方々を多く診ましたが、特に2000年頃は今と治療法が全く違って、骨に転移したら骨を切除するから寝たきりになるような状況だった。患者さんが増えるなかでしだいに興味が強くなっていって、在宅医療の専門になったというわけです。
「パチンコ屋に連れてってくれ」
――白い巨塔の手術室と違って、訪問診療の世界では、市井の人々のリアルな人生そのものに触れられたわけですよね。特に忘れがたい患者さんのエピソードはありますか。
小堀 もう、毎日がエピソードだらけですよ。例えば、ホームレスみたいな格好をした方で、毎月生活保護の7、8万円が入ると、有り金を全部パチンコ屋で使ってしまう患者がいました。よく「腹が痛い」って訴えるんですよ。食べ物を買うお金がなくて、腹が空いているだけなのですが、よくケアマネージャーや僕がパンを持って行っていました。
あるときその男性が慢性呼吸不全を起こして肺炎になるのですが、立派な病院には全部断られるんですよね。料金を踏み倒して逃げてきたからブラックリストに入っていて。そこで、僕とつながりの深い、経済的に恵まれない人の駆け込み寺的なデイサービスに入所してもらいました。
施設に入った彼が大真面目な顔で「パチンコ屋に連れてってくれ」と頼むので、車で連れていってあげようと思ってよくよく聞いてみたら、しょっちゅう負けて全額すっているという。僕は「そんなのは勝たなきゃダメだ。男として恥ずかしくないのか。上手い人のところに一日中へばりついてそのやり方を見るとか、なんか方法があるだろう」ってハッパをかけたから、なかなか外出が実現しなかったんです。
そしたら施設の社長がね、「海物語」という中古のパチンコ台を5万円ぐらいで買ってきたんですよ。それで彼が幸せになるならと。彼はもう、一日中そのパチンコに夢中になって、死ぬ前日までやっていたそうです。もう誰も使わないそのパチンコ台は、今も倉庫に眠っています。

