ギャラに反映されなかった会社への貢献
「当時の新日本は選手も熱かったけど、社員も本当に熱かった。辣腕社員みたいな営業マンが何人もいたよね。そういう社員が大阪や札幌とか、主要興行を担当して、全国のコースを仕切ってたから。彼らが競争のようにチケットを売って歩いて、全国どこでも超満員という状態だったんだよ。どんな田舎のほうでも、客数3000人以下っていうのは、ほとんどなかったんじゃないかな。また当時は地方のプロモーターが多くいた時代でね。毎年12月になるとプロモーター会議があって、南は九州・沖縄から北は北海道まで、日本全国からプロモーターが30~40人、東京に集まって、翌年度の興行について話し合いをしていたんですよ。
要するにシリーズでどこを回るかのコース切りを行うんだけど、各プロモーターが『この会場とこの会場は俺がもらう』とか、興行の取り合いだったから。だからあの時代は、年間200試合以上やっていたけど、ほとんど売り興行ばっかり。新日本が手打ちする自主興行は、東京、大阪、福岡などの大会場だけで、全国10カ所ぐらいしかなかったんじゃないかな。あとは全部、売り興行だから。
これは興行会社としてはいちばんありがたいこと。『興行は博打』みたいにいわれることがあるけど、売り興行というのは、チケットが売れても売れなくても、新日本にしっかりとお金が入ってくるわけだからね。
俺と長州の試合が、『名勝負数え唄』なんていわれて、なんであれだけたくさん組まれたかというと、各地のプロモーターから要望が殺到していたというのもあるんですよ。『うちでも組んでほしい』ってね。そして新日本の会社のほうとしては、そういうカードを売りにしていた。要するに『藤波vs長州を組むからこの値段で』とか、通常より高い値段で興行を売ったりね。だから俺も会社にはかなり貢献したと思うんだけど、あの頃はそれがギャラには反映されなかったな(苦笑)」