7年前の出来事とはいえ、東日本大震災の傷が完全に癒えたなどと到底言えないのは、現地に赴けばいまだ仮設住宅が使われていることからもわかる。
その後も自然災害は多発していて、まこと大惨事=カタストロフはつねに起こるものなのだと痛感する。そうした世の中にアートはどう向き合っているか。できることがあるのだろうか。
そんな問いかけに真摯に応えようとする展覧会が始まった。東京・六本木、森美術館での「カタストロフと美術のちから展」。
東日本大震災はどう表現されたのか
カタストロフは人やその暮らしを傷つけてしまうけれど、そこから立ち上がろうとする力が想像や創造につながることだってある。アートがカタストロフと対峙し力を発揮した例が、会場にはたくさん並ぶ。
展示は大きくふたつに分かれ、セクション1は「美術は惨事をどのように描くのか―記録、再現、想像」と題された。
スイスのトーマス・ヒルシュホーンは、崩れ落ちた2階建ての廃墟をその場に組み上げている。瓦礫が山と積まれているものの、近づけばそれらはビニールテープを巻いた段ボールだったりして、明らかにつくりものとわかる。
「なんだ偽物か」と少し拍子抜けするのだが、そんな自分の心持ちに愕然とする。悲惨な状況を目の当たりにして、本物なら満足で紛い物だとがっかりするとは、ずいぶん酷薄な考えじゃないか……。
写真を用いて制作をする畠山直哉は、「陸前高田2011」シリーズを出品。東日本大震災以降、畠山は自身の故郷である岩手県陸前高田市の風景を撮り続けている。その中から、2011年5月までに撮影された25点を展示した。
津波に晒された町の様子は、まさに大惨事としか言いようがない。それでも一枚ずつの写真からは、撮り手の故郷が被写体になっているゆえかノスタルジーを強く感じてしまい、自分の気持ちの収めどころのなさにとまどってしまう。
震災直後の制御室を表現
ドイツ出身のトーマス・デマンドは、ほぼ実物大で紙の模型を制作し、それを撮影した作品で知られる。彼が出品したのは、震災直後の福島第一原子力発電所の制御室をモチーフにしたもの。
天井板が剥がれた無残な制御室の様子を、作業員がカメラに収めていた。写真は報道を通じて世界中に伝わり、大きな衝撃を与えた。その有名な一枚を模型にして、写真に撮り……。トーマス・デマンドの作品ではイメージが何重にも虚構化されている。それでもなお生々しい恐怖を観る側にもたらすのは、驚きであり不気味でもある。