「選考委員は喋りつかれていた。容易に賞が決定しないのである」
なかでも強く反発したのが永井龍男である。永井はただの選考委員ではない。文藝春秋の社員として第1回から芥川賞と直木賞の事務方を務め、両賞の育ての親ともいわれた人物だ。その永井が、村上への授賞に反対し、辞任まで申し出た。
村上を評価した人、できなかった人
このときは強く慰留され、思いとどまった。しかし翌1977年、池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』が受賞すると、本当に選考委員を辞めてしまう。
その1977年の選考会で、司会を務めていた半藤一利に、永井は「半藤くん、私はこれから以後は戦死だ」と告げたという。議論の末に改めて意見を求められると、「戦死者が口をきけるか」と一喝した。文学賞の選考で「戦死」という言葉が出てくる。それほど、自分の文学観を譲れなかったのだろう。
今では名作として語られる作品も、登場した瞬間から誰もが安心して称賛できたわけではない。
ただ、興味深いことに村上を高く評価したのも、同じ文壇の先輩たちだった。
村上が受賞した1976年の選考会では、丹羽文雄の隣にいた中村光夫が、こう話しかけたという。
「そういえば、丹羽さんの『鮎』が文芸春秋に掲載されたとき、今夜と同じように評価がまっ二つに割れて、問題となりましたよ」
丹羽が『鮎』を発表したのは、1932年のことだ。生母を、一人の女性、一人の人妻として突き放して描いた。本人の回想によれば、当時は作家であっても親は親らしく扱うべきだという考えがあり、その描き方が問題になった。
「名作」で終わらせるにはもったいない
『鮎』から『限りなく透明に近いブルー』まで、44年がたっていた。丹羽は1985年、日本経済新聞への寄稿で両作を振り返り、「観念の上では大した進歩はなかったようである」と記している。
かつて親の描き方で世間を戸惑わせた青年が、年月を経て、新人の描く世界を評価する側に座っている。新しいものを受け入れる難しさは、年齢で線を引けるような話ではないのだろう。