「脳に傷をつけられた」――。パラスポーツを国内外で撮影し続ける写真家・越智貴雄さんは、少年時代に見た近鉄バファローズの試合をそう振り返る。13大会のパラリンピックを撮影してきた彼の原点には、野球が日常だった子ども時代と、シドニーで偶然目にした一枚の新聞写真があった。

2020年、本来東京パラリンピック開会式の日に、高輪ゲートウェイ駅で開催した「切断ヴィーナスショー」。海音さん。 ©︎越智貴雄

「3連勝後の4連敗」に放心状態、1時間立ち尽くした少年

 越智さんが育ったのは、当時近鉄バファローズの本拠地であった藤井寺球場の近くだった。年間のホーム戦のうち、50~60試合は足を運んでいたのではないかという。

 当時の近鉄は決して強くはなかったが、時折「信じられないようなミラクルなシーン」を見せてくれた。「いてまえ打線」と呼ばれた打線や、突然現れたスーパーヒーローの野茂英雄さんの姿が記憶に残っているそうだ。

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 忘れられないのは、小学生のときの巨人との日本シリーズである。初制覇まであと1勝と迫りながら、「3連勝後の4連敗」で敗れた。3勝3敗で迎えた最終第7戦は藤井寺球場での試合だった。チケットは取れず、球場の周りでラジオと声援に耳を傾けた。

「ラジオと声援を聞くだけでも至福の時間みたいな感じだったんですけど、負けちゃったときに放心状態になって」

 気づけば1時間、その場から動けずに立っていたという。越智さんはこの体験が「自分の基本みたいなところになってる」と語る。

 大学では大阪芸術大学で写真を学んだ。甲子園の高校野球を撮影するアルバイトも経験している。やがて報道写真のゼミの先生の影響で、シドニーオリンピックを撮るために休学し、オーストラリアへ渡った。

 しかし、どこの新聞社からも声はかからなかった。帰ろうと思っていたタイミングで届いたのが、「パラリンピック撮ってもらえる?」という依頼だった。

 突然の依頼だったが、戸惑いはなかったと越智さんは話す。シェアハウスで同居していたイギリス人の男性が見せてくれた新聞には、車椅子レース800メートルでメダルを取った土田和歌子さんが、スポーツ面のトップに載っていた。この出来事が、パラスポーツとの出会いとなった。

 インタビュー本編では、パラリンピックを撮り始めたきっかけから、社会の変化、日本と海外の視点の違いまでを語っている。

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