――48局、最短6か月が必要でした(その前にB2に上がっても48局指さなくては女流棋士申請資格が得られない)。3年生の冬に入れば、4年生の夏に女流棋士になる計算だったのでしょうか。
宮澤 そう考えていました。試験を受けたら高校で退会したときより下のC1クラス入会。実力がつけば必ず上がれるはずだと思い直し、再びB2→B1と昇級、48局もクリアして4年生になった7月1日付で女流棋士になることができました。
――周りの学生が就職を決めていくのと同時期に女流棋士になったのですね。中学、高校の時と違い女流棋士の職に就く覚悟が固まったのでしょうか。
宮澤 そうですね。中学生、高校生の時は女流棋士として働くことがまだピンときませんでした。大きな目標に向かって努力していたわけでもなくて。でも、女流棋士になろうと決めたら、上を目指す、タイトルを獲るために本気で取り組むと覚悟ができました。
私は長く、指導棋士の飯島篤也五段の広尾しょうぎ教室に通っていたので、飯島先生に「女流棋士になりたい。本気で頑張る」とお話ししました。飯島先生には「福間先生(香奈女流四冠)、西山先生(朋佳女流四冠)を倒さなくてはいけないよ」と言われました。
子供の頃から面識があった戸辺誠七段が師匠
――師匠は戸辺誠七段で、子供の頃から面識はあったのではないでしょうか。
宮澤 そうなのですが、戸辺先生に弟子入りのお願いをしたのは研修会再入会のタイミングです。飯島先生がまず話を通してくれました。戸辺先生は私が女流棋士にならないものだと思っていたようで、それまではいつもにこやか。でも、お願いしたときはビシっと「上を目指しなさい。中途半端な気持ちでやっちゃいけないよ」と。私の決意を伝えると、師匠を引き受けてくださいました。
――お父様が10年以上「ちゃきの週刊将棋」という、小学校入学前から女流棋士になるまでの記録を残したブログを続けていました。そこにも戸辺七段が何度も登場します。
宮澤 小学生の頃は「週刊将棋」として毎週ブログを書いていたようです。だんだんと更新頻度が下がって、大学の頃はその年の大会結果などを1年分まとめた「将棋年鑑」になりました(笑)。戸辺先生と最初に会ったのは、私が小学生の頃、父が将棋の親仲間と始めた将棋合宿「ときんの会」だったと思います。
――伊藤匠叡王のお父様も立ち上げメンバーで、6回行われた合宿の参加者から伊藤叡王の他、高橋佑二郎四段、小山直希四段、和田あき女流二段、和田はな女流初段、竹中歩美女流2級、小野花依女流2級とたくさんの棋士・女流棋士が誕生した合宿と聞きました。棋士や女流棋士を毎回呼んでいたとか。
宮澤 はい。上田初美女流五段も毎回のように来てくださり、女王のタイトルを持つ「憧れのすごい人」でした。駒箱に「女王 上田初美」とサインしていただいたことがあって今も大切に持っています。合宿では先生方の指導対局や、子ども同士のミニ大会、川遊びとかお楽しみもありました。




