復活しなかった美智子さまの記者会見
皇太子妃時代の誕生日前の記者会見は昭和天皇の闘病時に中止され、その後皇后となってもそれは復活しなかった。1991年からは宮内記者会の質問に文書で回答するようになったものの、これまでの皇后は単独で誕生日の記者会見をしていないとの理由から会見は開催されなくなった。メディア側はその後も単独の会見を求めているが、美智子皇后は自身の言葉で話すことの難しさを強調してそれには応じていない。つまり皇后の生の声が人々に伝えられるのは、外遊時、天皇の即位・10年・20年の節目、そして結婚50年目に限定され、しかも天皇・皇后そろっての場合のみであった。
また美智子皇后は明仁天皇と一緒に会見する時、必ず天皇を立てながら回答している。たとえば、記者からの質問に対して天皇が答えた後、皇后は「陛下が仰せになりましたように」という文言を最初に述べてから自身の回答を述べることが多い(1999年11月10日)。つまり、自分の意見は天皇とともにあることを強調しているとも言える。夫である明仁天皇という存在を立てる配慮(「家族への視点」)と言えるだろうか。美智子皇后の言葉からは天皇の妻として自分がいる、そうした意図が感じられる。
文書回答では、思いを率直に述べられるように
そうした配慮は平成を通じて貫かれている一方、皇后の言葉には次第に変化した部分もある。誕生日の文書回答は、平成の初期は非常に短いもので、箇条的に答えるものも多かった。ところが、1993年に起きた自身へのバッシング報道に対しては、「事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます」と明確に反論したのである。これ以降、徐々にその回答が長い文章となり、文字数も増えてくる。
また、次第に自身の思いを率直に吐露し始めるようになる。明治の自由民権運動期に生まれた憲法私案「五日市憲法草案」について、「近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした」(2013年)と言及した点は、改憲論議が続く現在の状況への批判的な眼があったように思われる。一方で、「人々への配慮」や「家族への視点」も増えてきたのは先に述べた通りである。
皇太子妃時代より「発言する存在」として常にあった美智子皇后は、皇后になっても文章という形に変わったが、そのあり方は基本的には変化していない。近現代史上、最もメディアにその一挙手一投足が注目されてきた皇太子妃・皇后。彼女のその後はどう展開していくのだろうか。