かっこいい解決方法がなくてもいい
――相手が親であっても、一人の人間としてアタッチメント・スタイルを客観的に理解することで、違った接し方ができるかもしれません。わたしたちが「アタッチメント理論」から学ぶべきことはなんですか?
林 今、なんでも自分で解決しよう、自分ひとりの力でよりよい人間になろう、という風潮がますます強くなっていると思います。でも、困ったときに他人に助けてもらいたい、不安なときに安心させてもらいたいと考えることは、とても本能的なこと。
なにか問題に直面したときに、たとえかっこいい解決方法が見つからなくても、誰かと分かち合えるだけで荷が下りることも多いじゃないですか。ですから、もっと人を頼る、人に頼られる、ということを大事にしてもいいんじゃないかなと思うんです。
最低限必要な人間関係はどこで維持する?
林 最後に、すごく変なことを言っていいですか?
――なんでしょう。
林 こんなことを言うとファンタジーになってしまいますが、人間が幸福に生きる基本的人権として私たちに「最低賃金」が保障されているように、「最低安心人間関係」みたいなものがあったらいいなって思ったんです。
今は親に会わなくたっていいし、ずっとシングルでいたっていい。昔と違って、1人でいることがたやすくなりました。でも、孤独死の問題なんかを見ていると、生きていく上で最低限必要な人間関係ってある程度の「量」があるんじゃないかと思うんです。
同時に、孤立している人がいても「それは自己責任でしょう」という感じで、目配りをしようという意識が社会全体に低くなっていますよね。昔のコミュニティーのような、しがらみのうっとうしい状態に戻った方がいいとは決して思わないのですが、「ここまで互いにほったらかしでいいの?」とは思うんです。いわば、社会全体の安心感が目減りしている感じがする。
――今の時代、そうした人間関係における安心感はどこで維持すべきなのでしょう。
林 アタッチメント理論では、ネガティブな感情を感じたときに安心感を与えてくれる「アタッチメント対象」を「月に一度以上会う」「困ったときに必ず助けてくれる」などと定義しているのですが、もうちょっと薄いつながりでも、安心を感じることはできると思うんですよね。
行きつけの飲み屋でも、お年寄りだったらデイケアでもいいですが、「気に入らないヤツもいるけど、まあまあ居場所になってるかな」「いざとなったら、あそこに行けば誰か聞いてくれる人がいるかな」というコミュニティーがあるだけでも違うと思うんです。「内輪」で固まらず、オープンで誰でも出たり入ったりできるような、ゆるやかで懐の深い、いわば「アタッチメント・コミュニティー」みたいな場所が、今後もっと増えていくといいなと思います。
写真=深野未季/文藝春秋