「文学国語」を選ぶ高校は無し?
高2高3に至っては、現在多くの高校が採用する「現代文B」という科目がこれまた「論理国語」と「文学国語」とに2分割されるのだが、こちらは単位数の関係で実質的にはどちらか一方しか選べなくなるのだ。そしておそらく多くの高校は、大学入試を睨んで実用的な「論理国語」を選ぶ。高校の先生方に尋ねてみたが、全員がそう答えた。
つまり多くの高校生にとって、「国語」から文学が消えるのだ。少し前に騒がれた「教科書から鴎外漱石が消える」というレベルの問題ではない。定番教材の中で、芥川の『羅生門』はかろうじて残るかもしれない。しかし、中島敦『山月記』、漱石『こころ』、鴎外『舞姫』という定番四天王の3つは消える。
いや、文学などより情報処理の方が実用的であり重要ではないか、という議論はありうるだろう。しかし、そういう議論をする時間はなかった。新指導要領がパブリックコメントに付されたのはたった一か月に過ぎない。さらに、「国語」の概念が変わるほどのこの大改革を一気に推し進めるべく、とられた巧みな方策は「上からの改革」だった。つまり、指導要領だけ変えても、現場では大学入試に合わせた授業展開をされてしまう。それならまず入試を、そして高校のカリキュラムを、という順序で変えてゆく。おそらく次は中学、そして小学校へと下りてゆくのだろう。完了した暁には日本人の誰一人として駐車場の契約でぼったくられないようになる……だろうか?
しかし、契約書だけをいくら眺めていても、こたびのような文科省の巧みな戦術を見抜くことはできない。相手の意図を見抜くには、情報処理だけでなく、行間や背景を見通す力が必要だ。そして、そうした生きた場の全体を示すものがたとえば小説である。それでも文学は実用的ではないのだろうか。
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