大きな画面いっぱいに、どこか規則性のある細かな模様がびっしり写し出されている。目を離した隙にうごめき出すんじゃないか、というほどの生々しさ。そこにあるリズムを聴き取ろうと画面のあちこちに目を走らせていると、どうやらこれが単なる模様じゃない、特定の場所を撮った風景写真であることに気づいて驚かされてしまう。
他ではなかなかお目にかかれないタイプの写真作品を堪能できるのが、東京・神田のギャラリーTARO NASUで開催中の松江泰治「gazetteer」展。
奥行きや立体感を、あえて徹底的に排除する
松江泰治は1980年代から現在に至るまで、科学資料を採集するような手つきで、各地の風景を撮り続けている写真家だ。作品の撮影地は世界中に散らばっている。広大な土地を俯瞰で眺められる場所を探すのだけど、条件に合う場所はそう簡単には見つからない。それでたいていは、およそ人がわざわざ足を運ばないようなところまで出向いていくこととなる。
ここぞという場所を定めると、カメラを取り出して撮影にかかる。その際は、みずから課した明確なルールに則っておこなわれる。大事なのは、構図に地平線を含めないことと、太陽を背に受ける順光状態でのみシャッターを押すことだ。
これは何のためのルールかといえば、画面をできるだけ平面的に見せるためである。地平線が写り込むと遠近感が生まれて奥行きが出てしまうし、順光でないと被写体に影が生じてモノが立体的に見えてしまう。
松江は自身の作品から奥行き、厚み、立体感、明暗のコントラスト、中心的な被写体と周縁背景の区別といったものを、注意深く排除していく。そうすることによって、画面に写るあらゆるものを等価に扱おうとする。
人はふだん先入観を持ってものや風景を眺めるから、外界を一瞥するだけですぐに安易な意味をつけて、ものを見たり分かったりしたつもりになる。本当はろくに見もせずに、惰性で情報を処理しているだけだというのに。
松江の作品は徹底的な平面化によって、風景から安易に導き出されている意味を剥ぎ取ってしまう。そのため画面に写っているのが、岩肌がむき出しになった山あいの土地、木々が一面に生い茂る森林地帯、見渡すかぎり都市に高層ビルが立ち並ぶさまだったりすることに、すぐには気づけない事態に陥る。何を撮ったのかようやく気づけたとしても、それらがあまりにもいつもと違った様相を見せているのでとまどってしまう。
「これって何だろう、ああ一面の森か、でも木々がこんなふうに見えたことってこれまでなかったな……」などと思い巡らせて、ずいぶん長い時間を作品の前で過ごすことになる。その時点でもう観る側は、松江の術中にまんまとハマっている。目の前に立ち止まって佇む時間が長ければ長いほど、その作品に対する関心も高まっているということだろうから。