落語は進化している
そんな落語界も世代交代が進み、落語そのものも進化している。
といっても、古典落語が衰退して新作落語ばかりになる――というわけではない。古典は古典として受け継がれている。「へっつい」や「長火鉢」「煙草盆」など、もはや古典落語でしか耳にすることのない単語もそのまま使われている。それらの単語が示す実体は知らなくても、「そういうものがあるんだ」と納得することでストーリーを成立させる、という客側の暗黙の了解も従来と変わらない。
それでも落語は進化している。
たとえば「江戸弁」へのこだわりが薄れてきているのも、そのあらわれだ。「ひ」と「し」が入れ替わるなど、独特の発音と言い回しを持つ江戸弁は、江戸落語の根底にあるものと考えられてきたが、近年はそこに重きを置く噺家は減ってきた。より現代的に、より分かりやすい言葉を選ぶことで、若い世代の支持を得ている。聖書は口語訳が普及し、森鷗外も現代語版のほうが読みやすい。落語だって同じことだ。
こうした変化を「進化」と呼ぶか「劣化」と考えるかは聞く側の自由だが、後者を選ぶ人は寄席に行くよりも、家で古今亭志ん朝のDVDボックスを観ているほうがストレスを感じなくて済む。逆に、そうした変化を受け入れられる人は、今も寄席を楽しめるはずだ。
志ん朝の名前が出たので白状するが、昭和40年生まれの筆者は志ん朝至上主義だった。17年前に彼が亡くなった時には、もう落語界は終わりだと悲嘆に暮れ、落涙した。
ところが、志ん朝が死んでも落語界は平穏だった、終わるどころか隆盛に転じた。落語が「ブーム」として扱われるようになり、寄席の前には行列ができた。