今年もまた、ホークスはメモリアルイヤーを迎えている。昨年は球団創設80周年。そして2019年は九州移転30周年だ。「WE=KYUSHU」を合言葉に特別デザインのユニフォームが作製されたり、イベント試合も行われたりするなどホークス球団もこの1年をファンと一緒に盛り上がろうという施策をしている。
たとえば公式戦5試合で「WE=KYUSHUデー」と銘打って行われる試合ではそのデザインのレプリカユニフォームが入場者へ無料配布される。長崎(4月9日)、熊本(5月18日)、鹿児島(5月19日)といった「鷹の祭典」未開催の球場でも実施されるのは非常に興味深いし、その街にホークスを浸透させていくうえで素晴らしい試みだと思う。
ただ一方で、昨年に比べるとOBを招いて当時を懐かしむような取り組みはほとんど行われていないし、今後もあまり予定はないようだ。球団関係者に問うてみると、「80周年だった昨年行ったので同じことをしても……との考えもあって」との回答。いや、それって違うんじゃないの??
古臭い考えかもしれないが、やはり数々の先人がいて、今のホークスが在るのだ。
あの日、あの時、あの試合で「それ」が起きたから、「何か」があったから、現在のような球界に誇れる強さと人気を兼ね備えるホークスが在るのではなかろうか。
山内孝徳が今だから明かす裏話
だからこそ、大事にしてほしい「あの日」がある。ホークスが福岡にやって来た初年度の1989年4月15日。当時本拠地だった平和台球場に旧主の西武ライオンズを迎えて、福岡のホークスとして最初の地元主催試合が行われた。
忘れてほしくない、あの鬼気迫るピッチング。それは当時産まれていなかった若いホークスファンの皆さんにも是非とも知ってほしい。黄金時代真っ只中のレオ打線に堂々立ち向かった男がいた。今ホークスの監督を務める、当時はライオンズの工藤公康投手との壮絶な投げ合いを制した福岡ダイエーホークスが2対1で勝利を収めた。死闘……いやホークス史に残る“史投”を繰り広げたあのエースに、あの当時の表舞台だけでなく裏の裏までたっぷり話を伺った。
背番号19、ひげのエース、山内孝徳だ。
早速あの試合のお話を――と話を振ろうとしたら、ひげの孝さんに「そこに至るまでの話があるのよ」と制された。それは今だから明かせる、スゴイ裏話だった……。
「水面下で巨人とのトレード話があったらしいのよ。南海の最終年だった'88年シーズンの終わり頃だったかな。身売りの噂はチラホラ聞いていて、もう正式にダイエーだと固まった頃かな。福岡に行くのも耳にしていたし、俺たちも少なからず動揺はしとった。その中で仲の良かった新聞記者が『でも、山内さんはトレードが決まったらしいですよ、おめでとうございます』と。え? は? どういうことよってなったわけよ」
少し補足をしよう。'80年代は万年Bクラスだった南海ホークス。山内孝はその中で毎年奮闘し、'88年には7年連続となる2桁勝利を達成していた。「あの頃は環境も待遇も悪かったよ」。いわゆる昭和のパ・リーグの典型のようなチームだった。
しかし、山内孝は「南海ホークスに命を捧げるつもりで入った」という。'79年ドラフト3位で指名。だが、実は事前に2位を確約されていたという。反故にされた山内孝は怒り心頭で入団はしばらくずれ込んだ。翌年のドラフトまで待てば他球団からの上位指名も確実視されていた。
「だから、ある意味南海は首を縦に振らないだろうと思って、野村克也さんのつけていた背番号19を要求したんよ。そうしたら協議の結果オッケーだと。驚いたさ。だけど、そこまでしても自分のことを必要としてくれた。じゃなければ電電公社(現在のNTT)を辞めて南海ホークスに入団したりせんよ」
だからこそ“南海”に骨を埋めるつもりで投げてきた。南海身売りはまさしく身を斬られるような思いだったが、熊本出身の山内孝にとっては九州の球団でプレーを出来る機会となるわけだ。「それならば仕方ない。福岡ダイエーで、俺はやったるぞ」とようやく踏ん切りをつけた矢先のトレード話だった。