今年の中日ドラゴンズは、去年とは一味も二味も違う。
もっとも大きな違いは、今年は大野雄大がすこぶる元気だということだ。
落合博満監督時代のドラゴンズの象徴はアライバだった。では、落合監督退任以降のドラゴンズの象徴は誰だったかというと、筆者は大野雄大と高橋周平だと思っている。監督が誰に代わろうが、この2人が活躍すればドラゴンズは活気づき、沈黙すればドラゴンズも停滞した。
与田剛監督はそのあたりがわかっているようで、高橋周平にはキャプテンという大任を与え、大野雄大にはホーム開幕戦を任せている。
大野雄大の魅力は明快だ。とにかく投げっぷりがいい。140キロ代後半のストレートをズバズバ投げ込む左の本格派。年間200イニング、3000球を投げるタフネスぶり。そして、マウンド上で相手打者を睨みつける誰よりも強い眼差し。人生で夏バテした経験がないと豪語する大野雄大を見ていると、馬車を引く馬のようだといつも思う。
でも、唯我独尊とかお山の大将というタイプではない。1学年後輩の田島慎二は「近寄りがたい雰囲気がない」と話す。
二つ名は「口から生まれたサウスポー」。大野雄大の言動はいつも周囲を笑顔にする。入団直後の食事会ではB’zの「ultra soul」を熱唱し、百戦錬磨の先輩たちから拍手喝采を受けた。翌年のファン感謝デーでは「モリミチダンス」(あったなぁ)を率先して踊り狂い、ファンに「あのドラ1は何かおかしい」と印象づけた。
愛娘が誕生したときは藤井淳志と同じ誕生日だと聞いて「そこだけが悔やまれます」と笑い飛ばし、平田良介と一緒にお立ち台に立ったときは「ジョイナス!」と言おうとして平田にたしなめられた。ファン感謝デーで選手会長として挨拶に立ったときは「今日は選手に何をしても構いません。浅尾さんもキスまでならOKと言ってました」と言って浅尾拓也を困惑させた。特番でメイドカフェを訪れたときは、ウサギの耳をつけて「もとの国に帰りたくないにゃん!」とシャウト。このときのキャプチャー画像はネットの海を今も漂っている。
とはいえ、いつもちゃらんぽらんというわけではない。浅尾は、飲み会ではハイテンションだが、しばしば一人で落ち込んでいる大野雄大の姿を目撃している。
大胆に見えてナイーブ。ちゃらんぽらんなのに真面目。弾けているのにクレバー。少年のようでいて大人びている。ポジティブに見えてネガティブ。宴会部長なのに涙もろい。おちゃらけていると思ったら泣いている。そんな二面性がファンを惹きつけてやまないのだろう。
逆境だらけの野球人生
大野雄大は、何度も辛酸を味わい、そのたびに屈辱の涙を流して、そこから這い上がってきた。
野球を始めたのは小5のとき。中2になるまでまったくストライクが入らなかった。ノーコンだった大野雄大少年のキャッチボール相手を務めたのが、彼を女手一つで育て上げた母の早苗さんだった。どこに行くかわからないボールをアザだらけになってキャッチし続けた。
大野雄大の転機となった有名なエピソードがある。中2のときの練習試合。3−0でリードした最終回で登板したが、6連続四球で試合をぶち壊した。試合後は水飲み場で頭から水を被ってごまかしながら一人で泣きじゃくった。
周囲の罵声に心を痛めた早苗さんは試合後、監督に「うちの息子は、ピッチャーはできません、やめさせてください」と直訴したが、監督は「中学生は成長期。体のバランスがうまくとれないから、四球を出すことは全然心配ない」と言い切った。チームメイトにも励まされ、初めて「もっと上手くなりたい」と思ったという。
佛教大学ではストレートに磨きをかけて最速151キロを記録。「大学球界BIG4」という称号も得るが、大学日本代表メンバーには選ばれなかった。理由はわからない。このときもショックのあまり泣き通した。
左肩のケガを抱えて2010年のドラフトでドラゴンズに入団。初登板は6月のプロアマ交流戦だったが、アマの9番打者に満塁ホームランを浴びる。ファームでの公式戦初登板も3者連続二塁打を打たれて3失点。一軍初登板は2011年10月14日。勝てば優勝という試合で先発に抜擢されたが、巨人打線にフルボッコにされた。登板前は緊張のあまり「何でプロ野球なんてあるんだ」と思ったという。
ドラゴンズのエースと呼ばれるようになってからも順風満帆ではない。特にここ数年は辛い時期が続いている。2017年は開幕から勝ちがつかず、5月のヤクルト戦で志願のリリーフ登板するが、3四球からサヨナラ満塁ホームランを被弾。「自分は一軍にいてはいけない投手です」と口走ったこともあった。7月のヤクルト戦ではあの「10点差逆転」試合を演出してしまう。2018年4月は群馬での巨人戦で屈辱の20得点を許すきっかけを作り、この年はついに勝ち星ゼロで終わってしまった。
しかし、やられて黙っている大野雄大ではない。
泣きに泣いた練習試合の後は野球に打ち込み、またたくまに成長を遂げた。大学日本代表の選考から漏れた後も快投を見せ、同じ年(
彼の野球人生において、2017年から2018年にかけての絶不調期はもっとも大きな逆境だろう。ならば、成長の幅もとてつもなく大きいに違いない。