※こちらは公募企画「文春野球フレッシュオールスター2019」に届いた約120本を超える原稿のなかから出場権を獲得したコラムです。おもしろいと思ったら文末のHITボタンを押してください。

【出場者プロフィール】柳 賢(やなぎ・けん) 東京読売巨人軍 42歳。故郷のヒーロー、カトケン(加藤健)さんの引退以来、心のもっていきどころを模索したままの新潟生まれの会社員。吉田拓郎さんに憧れて始めた弾き語りライブ活動は常々供給ばかりで集客面での需要に乏しい。

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 昭和61年、9月。それはまるで何かの事件を見ているようだった。

 当時、地域の少年野球チームに入ったばかりの小学校3年生だった僕は、まだユニフォームを貰えず、巨人の帽子を被ってキャッチボールをしていた。そんな僕を見かけて監督が一言こういった。

「最近、西武の帽子を被ってる奴が多いからお前みたいに巨人の帽子を被ってくる奴のほうが少なくなったな」

 時代はちょうど西武黄金時代の始まりを告げる頃。工藤公康・渡辺久信・清原和博・秋山幸ニが「新人類」とか呼ばれてブイブイ言わせていた頃の話である。

 そんな自分に初めて「オトコのロマン」のようなものを気づかせてくれた事件、それは当時のプロ野球のひとつのワンシーンだった。

 そして、野球を覚えたてのその頃の僕は、セーフティバントは足の速い人しかやってはいけないものだと思っていた。

僕の「オトコの初ロマン」

 遠い記憶をたぐり寄せ、改めて事件の詳細を思い起こす為、国会図書館で当時の新聞を調べてみた。

 昭和61年、9月8日、後楽園球場。ここが事件の現場である。

 読売巨人軍×大洋ホエールズ、23回戦。巨人の先発は槇原寛己。大洋の先発は大門和彦。

 巨人は、原辰徳、ウォーレン・クロマティ、中畑清がスタメンに名を連ね、対する大洋はスーパーカートリオと呼ばれた高木豊・加藤博一・屋鋪要がスタメンに並んでいた。

 試合は1対1で迎えた8回裏、大洋は抑えの斉藤明夫がピンチを招きツーアウト1、3塁。迎える巨人のバッターは8番キャッチャー有田修三。昭和60年オフに近鉄から巨人に移籍してきた、当時プロ入り14年目、34歳のベテランキャッチャーである。

有田修三 ©文藝春秋

 そして事件はこの打席で起きたのである。

 なんと足の遅い有田が3塁側にセーフティバントを敢行、3塁線ギリギリに転がる素晴らしいバントだ。

 意表をつかれたサード山下大輔は前進し華麗なスナップスローで1塁へ、これも素晴らしい送球、すると有田は1塁手前から足がもつれたようにも見える迫力あるヘッドスライディングをかました。

 松橋1塁塁審の手が広がる、セーフだ、1点が入る。

 すると判定に怒ったファースト、カルロス・ポンセが帽子とグローブを叩きつけ猛抗議を始めた、それを見たサードコーチャーの土井正三の右手が回る、サードランナーの吉村禎章はもちろんファーストランナーだったはずの岡崎郁まで3塁を蹴りホームに帰ってきた。言ってみれば、セーフティツーランスクイズである。

 これを見て大洋は近藤貞雄監督が加わりさらなる猛抗議、巨人の王貞治監督はベンチを出て、1塁に倒れこんでいる有田を助け起こしている。

 あぁ……大のオトナ達が我を忘れるほど、一喜一憂している。ある者は1塁に倒れ込み、ある者は判定に怒り、ある者はそのスキをつく。

 なんだか観てはいけないものを観てしまった感満載だった小学校3年生の自分にもハッキリと分かることがひとつだけあった。

 1塁へヘッドスライディング、というよりも巨体がバッタリ倒れたようにも見えた有田修三がメチャクチャカッコよかったということ。

 大のオトナ達が我を忘れて一喜一憂した有田のセーフティバント劇場、いや、激情。僕の「オトコの初ロマン」。

 オトナも怒るし、オトナも必死だし、オトナになってもコケるのである。