※「文春野球甲子園2019」開催中。文春野球のレギュラー執筆者、プロの野球ライター、公募で選ばれた書き手が、高校野球にまつわるコラムで争います。おもしろいと思ったら文末のHITボタンを押してください。
【出場者プロフィール】市川いずみ(いちかわ・いずみ) 京都府代表 高校野球とタイガースを愛するフリーアナウンサー。「おはようコールABC」(朝日放送)、「ちちんぷいぷい」(毎日放送)などに出演中。スポニチで高校野球コラム「いっちーの届け夏エール」連載中。
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「最高の場所でした!」
こう振り返る球児は多くいますが、岩国商業(山口)の吉本光佑君が放ったこの言葉には甲子園という憧れの舞台が与えるパワーというのを感じざるを得ませんでした。
山口県立岩国商業高校。「ガンショー」の愛称で親しまれ、広島県に隣接する山間にその学校はあります。全校生徒329人、男子生徒はわずか81人でうち52人が野球部に所属しています。ほとんどの男子生徒が野球部員という学校です。1968年夏に初めて甲子園出場を果たすと、これまでに夏4回、春1回の出場経験がある野球に熱い学校として知られています。
“おんぶ”で整列 忘れられない2013年夏の山口大会
忘れられないシーンは2013年夏の山口大会。この年の春に選抜初出場を果たし、夏も連続出場が期待されていた岩国商業は順当に勝ち上がっていきます。校歌を元気よく歌ったあと、応援スタンドに駆け出していくのが馴染みの光景ですが、岩国商業の選手たちはゆっくりと歩き始めたのです。何も知らなかった私は「いつもグラウンドでテキパキ動いている子達がなんでこんなにダラダラしているんかなぁ」と思ってしまいました。少しの疑問を抱いたまま取材を進めると、選手たちからそろって出たのは「光佑のために夏も絶対甲子園に行きます!」という言葉でした。
小学4年で野球を始めた吉本君は、俊足巧打の外野手として少年野球チームで活躍。市の選抜メンバーにも選ばれるセンスあふれる選手でした。父に憧れ、父の母校・岩国商業で甲子園に出ることを夢見て白球を追っていた吉本君。しかし、中学2年のとき突然大病に襲われました。約8か月間治療し回復したものの、薬の副作用で膝の骨が壊死。走ることができなくなりました。それでも「ガンショーで甲子園に行きたい!」と、入部を決意。
憧れのガンショー野球部に入りましたが、さっそく大きな壁にぶち当たります。自分ひとりでグラウンドに行くことができないのです。野球部のグラウンドに行くには55段もの急な階段を降りる必要があります。健康な私でも途中で休憩したくなるような急で長い階段です。当時の吉本君にはその階段の昇降すら難しく、チームメイトが毎日“おんぶ”をしてグラウンドに向かってくれました。練習場所に行くのにも一苦労です。
練習中はノックの補助やティーバッティングのトスをあげ、データの収集などサポート役を任されました。ただ、本心はみんなと一緒に野球をしたい。大会でプラカード役を任された際は「どうして自分がこんなことをしないといけないんだ」という態度をとってしまうこともあったようです。
チームの合言葉は「光佑を胴上げしよう!」
緑に囲まれたいわゆる田舎町で育ったガンショーナインは幼少期からずっと一緒。エースだった高橋由弥君(現:王子)は「野球がうまかった光佑が急にこんなことになるなんて正直びっくりしました。でも絶対に光佑を甲子園に連れて行こうと入学した時から決めていました」。ピンチの時にマウンドからベンチにいる吉本君を見ると心が落ち着いたといいます。
チームメイトが合言葉のように「光佑を胴上げしよう!」と口にするようになり、吉本君も大きく変わったと中内博和監督は話します。「3年生になってから野球ができない苦しさを押し殺して仲間へアドバイスをしてくれるようになりました。他人の為に行動し、チームの心の支えとなりました」。笑顔を絶やすことなく、悩みの相談に乗ったり、データ収集に奔走したり全力で自分の仕事に向き合うようになりました。決して試合に出ることはないけれど、チームのど真ん中にいたのは吉本君でした。
この年の春に選抜で宮本丈選手(現:ヤクルト)がいた履正社(大阪)に大金星といってもいい見事な完封勝利をあげた岩国商業ですが、その後の春の山口大会ではあっさりと敗退。中内監督は、「夏にはさらに光佑の力が必要になってくる」と、18人にしか渡すことのできない背番号を吉本君に託すと決めました。「正直自分がもらっていいのかなと思いました」。吉本君は複雑な気持ちになったといいますが、できることをやろうと18人目の選手として最後の夏を迎えました。