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特集74年、あの戦争を語り継ぐ

“悠仁さまの家庭教師”半藤一利89歳が振り返る「太平洋戦争開戦の興奮」

“悠仁さまの家庭教師”半藤一利89歳が振り返る「太平洋戦争開戦の興奮」

戦後74年――いま語られる“半藤少年”の「戦争体験」 #1

2019/08/15
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「この戦争は負けるぞ。おまえの人生はもう長くはないな」

 その日、奇妙な高揚感を覚えながら学校に行くと、道すがら会う周囲の大人たちはこの開戦のニュースに大喜びしていました。

 また、学校では校長先生が全校生徒を集めて、「これから大変な戦争をやって、アジアの植民地になっている人たちを全部救うんだ」「だから君たちもしっかりと勉強するように」という話をしました。教師たちも「日本は絶対に勝つ」と誰もが勇ましく言っていたため、私はとても安心して帰宅したものです。

 だから、家に戻った途端、朝は黙っていた父親からこう言われたときは驚きましたね。

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「馬鹿なことをしやがって。日本中で喜んでいるらしいが、この戦争は負けるぞ。おまえの人生はもう長くはないな」

 

かつて海軍にいた父は日本の“実力”を知っていた

 当時、親父はこの下町で運送業を営んでいましたが、昔は海軍にいたという経験がありました。そのため、日本の軍隊が無敵でもなんでもないことを、実感として知っていたのでしょう。何しろ自分の乗っていた軍艦は外国で造られたもので、以前は日本人が造った船は一隻もなかった。もちろん飛行機も外国から買ってきたものだったわけですから。

 日本には工業力もなければ資源もない。それでも明治期に、自分たちは欧米列強と肩を並べる強国であり一等国なのだから、いわゆる「大国主義」でこれからは行くんだ、と決めたわけです。

 

 しかし、親父の方は世界の国と仲良くしながら、交易を盛んにして、国そのものを豊かにしなければならない、という考えだったのでしょう。そうしなければこの国はいずれ立ち行かなくなる、と分かっていた人だったのだと思います。ただ、小学5年生だった私はそんな父親の言葉に触れて、「やっぱりうちのオヤジは変だな」「ひょっとしたら非国民なのかな」と思うばかりでした。

 そもそも、あのときの日本人がみな開戦のニュースを喜び、道行く大人たちをウキウキとした表情にさせたのには理由がありました。その理由を理解するためには、同時期の日本の置かれた状況を、世界史の中に置いて考えてみる視点が必要です。