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原発事故で取り残され……「牛は悲鳴をあげて餓死した」南相馬市の元酪農家が語る“9年間の悔恨”

3.11から9年――東日本大震災の傷跡 #1

2020/03/11

genre : ニュース, 社会

 1枚の写真がある。

 荒々しく削られて細り、ささくれた「柱」を撮影したものだ。牛舎で牛をつないでいた柱である。

 なぜ、そのようになったのか。(全2回の1回目/後編に続く

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牛が最後の力を振り絞ってかじった「柱」

 東日本大震災による東京電力福島第1原子力発電所の事故から半年が経過しようとしていた2011年夏。福島県南相馬市の元酪農家、半杭(はんぐい)一成さん(70)は、泣く泣くミイラ化した牛の埋却作業を行っていた。

 半杭さんは自宅で40頭の乳牛を飼っていたが、原発から20km圏の避難指示エリアに入ったため、牛を置いて逃げざるを得なかった。最初は住民の消えたまちでとどまっていたが、原発の爆発・火災事故が相次ぎ、とても残っていられる状態ではなくなったのだ。

餓死した牛たちの痕跡

 牛は牛舎でつながれたまま飢えて、死んだ。政府はそうして死んだ大量の牛を、牧草地などに埋却する方針を打ち出し、半杭さんも防護服を着て作業に当たった。ずらりミイラ化した牛を運び出すと、閑散とした牛舎で柱だけが目立つ。その時、柱の「変形」に気づいた半杭さんは、愕然とした。

 牛は食べるものがなくなり、木の柱までかじったのだと、すぐに分かった。最後まで生きようと、必死であがいた痕跡が刻まれていたのだ。「牛さんに悪いことをした。本当に申し訳ないことをしてしまった……」

がらんとした牛舎。試運転しただけのトラクターが置かれている

 止めどなく涙があふれ、立ち尽くすしかなかった。

 飼っていた牛を「牛さん」と呼ぶほど可愛がっていたからこそ、悔恨が募る。半杭さんは柱を撮影し、プリントした写真をバッグに入れて、肌身離さず持ち歩くようになった。

 あれから9年の歳月が経ち、写真は半ば破れてボロボロになった。それでも写真を見るたびに目頭が熱くなる――。

自宅が倒れそうなほどの大地震

 半杭さんが住んでいたのは、南相馬市の小高(おだか)区(旧小高町)だ。平成大合併で1市2町が一緒になった南相馬市では、一番南に位置している。さらにその南に浪江町があり、双葉町、大熊町と続く。

 東電福島第1原発は双葉・大熊の2町にまたがって立地している。小高区役所(旧小高町役場)から16kmの距離だ。

小高区のシンボル相馬小高神社。小高城址にあり、武家文化を受け継ぐ伝統の野馬懸が行われる

 あの日、2011年3月11日午後2時46分、大地震が起きた。半杭さんは自宅前の牧草地で、買ったばかりのトラクターを試運転していた。「揺れはいつまで経っても止みません。ああ、もう2階建ての自宅が倒れてしまう。いい加減に収まってくれと、必死で祈りました」

 隣家では石蔵が音を立てて崩れ、ぺしゃんこになった。