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 こうした発言が球団発行誌に載るのもすごい話だが、そこまでお膳立てをしながら、結局ミスターが大洋にやってくることはなかった。そして84年のシーズン、チームは最下位に沈み関根さんは監督を辞任する。次に就任したのは中日時代から打倒巨人に執念を燃やす近藤貞雄さん。今以上にファンの間にもアンチ巨人の空気がまん延していた時代だから、「巨人の長嶋」が来るより近藤さんの方が嬉しかった。関根さんは実に特殊な状況で快く監督を引き受け、静かにその座を去ったのである。

1984年横浜大洋ホエールズファンブック『マリンブルー』の関根潤三監督紹介ページ ©黒田創

選手育成型の監督だった関根さん

 上の対談でも本人が認めるように、関根さんは選手育成型の監督だった。ドラフト5位ルーキー金沢次男を抜擢し、ロッテから欠端光則を獲得してその後の準エースに育て上げ、姓が同じ関根浩史を「関根ジュニア」として売り出した。入団以来先発、抑えと起用法が安定しなかった遠藤一彦が83年、84年と2年連続最多勝を獲得できたのは、関根さんが絶対的なエースとして信頼したおかげである。

 また、広島コーチ時代の衣笠祥雄との「深夜の素振りエピソード」に代表される通り、関根さんはその厳しい指導ぶりでも知られている。大洋で1982年に首位打者を獲得した長崎慶一さんはその前年、球団にトレードを志願していたところ、監督に就任したばかりの関根さんに「俺がいる3年間だけは我慢しろ」と引き留められたという。

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「関根さんは温厚に見えて厳しい方です。少し休めば長引かない程度のケガをしていて、今後のために1試合休ませてほしいと頼んだら、“休んでもいいけど帰ってくる所はないぞ”と突き放す。続けて“いまお前がスタメンから抜けるとチームバランスが変わってくるだろ?”とも。これには身が引き締まる思いでした」

「関根さんがチームに与えた影響は大きかった。僕ももう一度やる気になって、高木豊ら若手も育ちましたから」

(文春野球コラム『田尾5敬遠で首位打者獲得の舞台裏――「大洋ホエールズOB」としての長崎慶一さんに会いに行く(後編)』より)

 応援しているチームが勝った方が嬉しいに決まっている。でも願うように勝てなくたって、野球には他にも楽しいことがたくさんあるし、世の中の物事にはいろんな側面や事情がある。そんなことを野球を見始めた頃にぼんやりと実感できたのは、実は関根さんが大洋の監督を引き受けてくれたからなんじゃないか。今はそう思っている。

 関根潤三さん、今までありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

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