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【追悼】好きだった関根潤三さんを、ちょっと嫌いになって、また好きになった理由

文春野球コラム2020 オープン戦

2020/04/10

関根潤三監督がヤクルトを率いた3年間

 関根潤三さんのことが嫌いだった時期がある。あれは1990(平成2)年のことだった。この年の夏、関根さんが出版した『一勝二敗の勝者論』(佼成出版社)という本が、その原因だった。

 ご存じの通り、関根さんは87年から89年までヤクルトの監督を務めていた。3年間のチーム成績は4位、5位、そして4位。Aクラスに入ることは一度もなかった。神宮球場はガラガラだったけど、それでもこの3年間はすごく楽しくいい思い出が残っている。チームは弱かったけれど、ムードは最高に明るかった。

 全身がバネのような池山隆寛はまばゆいばかりの輝きを放っていた。ようやくプロの水に慣れつつあった広沢克己は三振は多かったけれど、少しずつ勝負強いバッティングを発揮し始めていた。伊東昭光はすべてリリーフ登板で最多勝に輝き、「ギャオス」こと内藤尚行は歯茎をむき出しにしながら、いつも叫んでいた。そして、88年には生まれながらの華を持つ長嶋一茂が入団し、チーム全体が一気に華やいでいた。

 外国人も個性的な選手ばかりだった。関根監督就任1年目には現役メジャーリーガーのボブ・ホーナーが加入。すぐに「ホーナー旋風」を巻き起こした。翌88年にはオープンしたばかりの「東京ドーム第1号」を放ったダグ・デシンセイがいたし、89年にはワニを食べることで話題となったラリー・パリッシュがホームラン王に輝いた。そうそう、この年には笘篠賢治が新人王を獲得した。これらはいずれも関根監督時代の出来事だった。

 この頃のヤクルトが大好きだった。チーム成績や観客動員に関係なく、野球の楽しさにあふれていたのが関根監督時代だったからだ。この時代の遺産があればこそ、後を引き継いだ野村克也監督時代にヤクルトは黄金時代を迎えたのだった。

大洋とヤクルトの監督を務めた関根潤三さん

関根さんのことを嫌いになった理由

 関根さんには感謝しかなかった。大好きだった。しかし、その思いに陰りが生まれたのが前述した『一勝二敗の勝者論』という一冊の本だった。発売と同時に購入した。しかし、最初の数ページを読んだだけで、僕は本を置いてしまった。読んでいて腹が立ってきたからだ。「はじめに」には、こんな記述がある。

 みなさんは、「一勝二敗」は負けの人生であると思うだろうか――。ふつうなら、そう思うだろう。しかし、私はけっして負けであるとは思っていない。負けるとは、その「一勝二敗」の逆境に耐えられず、逃げ出すことであるのだから……。
「一勝二敗」でも勝者になる道はある。いや、「一勝二敗」だからこそ、勝者になれるのだ。

 当時、二十歳になったばかりで生真面目だった僕は、「はじめに」を読んだだけで立腹していた。いくら負けても神宮球場に通い、どんなに大敗しようとも「池山のホームランはすごかったな」と応援を続けていたのに、当の監督は「一勝二敗だからこそ、勝者になれるのだ」なんて屁理屈をこねていたのかと思うと、どうにもやりきれなくなったのである。以来、関根さんに対してはあまりいい感情を抱くことはなく、時間が経過していった。