カッコよく言えば不器用だし、ありていに言えば馬鹿だった
のちに雑誌『JJ』の専属モデルになった十和子は、バブルの好景気に乗り女優の道を進む。
「いま思えば、時代が求める見た目どおりの女性を演じるべきだったんでしょう。ちょっと華やかで、贅沢で、高嶺の花みたいなものを。でも、そこには内面の自分と相当な乖離があったので、なかなかできませんでした。不器用だったなって、思いますねえ」
著書でもインタビューでも、十和子は自身を「不器用」と評す。
「カッコよく言えば不器用だし、ありていに言えば、馬鹿だったんでしょう。理解が足りず、掘り方が甘かった」
私がまだ10代だった頃のこと。テレビをつけると深夜番組に吉川十和子が出ていた。司会者の男は遠慮なく十和子を誉めそやし、露骨に好意を示した。
十和子は戸惑いを隠さなかった。画面からぎこちない空気が染み出してきたのをはっきりと覚えている。美しい女はそういう場面で軽口をたたき、いなすのが通例だったので驚いた。
私見ながら、彼女の挙動不審は典型的な女子校育ちのなせる業とも言える。学生時代に美貌によるアドバンテージを享受したことがない美女は、社会に出てから苦労するのだ。仕事が終われば真っ赤なスポーツカーが迎えにくるのが吉川十和子だと思っていたが、実際には小田急線で帰っていたという。
1年の半分以上が舞台の仕事で埋まる女優に
「私より美しい人なんてたくさんいるじゃないですか。でも、そんなことを言えばぶりっこと言われてしまう。そこも乗り越えなきゃいけないのに、できませんでした。素人感覚が抜けなくて、芸能人と同じ場に立っていることを引き受けられなかった。いつも及び腰だから、どこにも到達できない」
根が真面目なのだ。やるなら真剣にと、演劇研究所にも1年半通った。外郎売の台詞から始まり、古典芝居を一から十まで覚えた。その甲斐あって、20代後半に十和子は舞台の仕事に目覚める。舞台好きの血が騒いだか。
「みんなで同じスタートラインに立ち、目標に向かう欲求が常にありましたから。男も女も演者も裏方さんもみんなで作る。毎日の積み重ねで作りあげる喜びです」
27歳になると、1年の半分以上が舞台の仕事で埋まるようになった。与えられた役割がある限り、人の何倍も努力し、周りの助けを借りてでも全力でやり遂げよう。十和子はそう決めた。
仕事を辞める気はなかった。結婚するなら女優業を理解してくれる同業者だろうと思っていた。
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きみじまとわこ/1966年東京都生まれ。85年、高校在学中にJAL沖縄キャンペーンガールに選ばれデビュー。『JJ』モデルを経て女優として活躍。結婚を機に芸能界を引退。2005年、化粧品ブランド「FELICE TOWAKO COSME(現・FTC)」を立ち上げる。
ジェーン・スー/作詞家・ラジオパーソナリティ・コラムニスト。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎)で講談社エッセイ賞を受賞。近著に『これでもいいのだ』(中央公論新社)、『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』 (朝日文庫)。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」(月~金11:00~13:00)が放送中。