義母は職業婦人だった。
「働く女が家庭を整えておく意味を、義母との同居から学びました。働く女は家を空けることが多い。人に任せなきゃいけないことも多い。だからこそ、誰にどこを開けられてもきちんとしていなければというマインドが義母にはありました。会社の誰かが来て雑巾が入っている棚を開けようとも、まったく恥ずかしくない状態だったんです」
プレッシャーはなかったのだろうか。
「ところが、義母は君島一郎とはまったく別のオートクチュールサロンを経営しており、多いときには15人ほどのお針子さんを抱えていたんです。なにもできない若い女の子というものを知っていた。だから私にも始めから高いレベルを求めてはきませんでした」
義母と対立する思いも、時間もなかった
結婚当初は女優の仕事も残っていたが、肌着の洗濯から炊事まで、なにも言わずに義母がやってくれた。
「最初からできるとも思ってないし、やってほしいとも思わない。できるところから学んで、真似したいところだけ真似すればいいわ。結局、あなたが家庭を作るわけだから。そう言われていました。ありがたかったですね」。
結婚当初は家の中にしか平和がなかった、と十和子は言う。
「半年前に初めて会った人をお義母さまと呼び、手を取り合って生活する毎日。ワイドショーでは懇切丁寧に義母の過去が放送されていましたが、事実に反することがあったら内容証明を送らなきゃいけないからメモしておくようにと弁護士さんに言われていて。知る必要のないお互いの過去が次々とさらされるのを、家族揃ってお茶を飲みながら見ていました。義母と対立する思いも、時間もなかったんです」
十和子は洗い終わった洗濯物を乾燥機に2~3分掛けたあと、床の上に敷いたシートに1枚ずつ広げ、しっかりとしわを伸ばしてから干す。これは義母のスタイルをアレンジしたものだ。シルバーと漆器の扱いも義母仕込み。絶対に離婚すると手ぐすねを引く世間とは裏腹に、君島家では有機的な営みが育まれていた。
嫁姑の諍いや、若い女と中年女の対立。十和子が女優だった頃は、こうした決まったフォーマットが消費され続ける時代だった。