「サンドウィッチマン(以下サンド)がM-1で優勝する1年前、福島の500人入るホールでライブをやったんですけど、観客がたったの4人。さすがに富澤も落ち込んでました。東京でも売れず、ホームタウンの東北に帰ってきてもこの有様。とても荒れていましたね」
そう語るのは仙台でローカルタレントとして活動するワッキー貝山さん(50)。「ガチャガチャ研究家」としても知られ著書も多数ある貝山さんだが、実は伊達みきお(45)、富澤たけし(46)の兄貴分で、上京前からサンドを支えた恩人だった。(全2回の2回目/前編から続く)
「やっと相方を口説けたので東京行きます」
「文春オンライン」が行った「好きな芸人」ランキングで2連覇中のサンドは、レギュラー15本を抱えるテレビの活躍だけでなく、みやぎ絆大使、東北楽天ゴールデンイーグルス応援大使を務めるなど東北の顔としても八面六臂の活躍だが、ブレイク前は“笑い不毛の地”と揶揄されていた東北で下積みの日々を過ごしていた。貝山さんが明かす。
「僕はもともと吉本の銀座7丁目劇場で芸人をしてたんですが、仙台吉本を立ち上げることになって地元の宮城に戻った。富澤と初めて会ったのはその頃で、1996年のこと。仙台のテレビ局の芸人オーディション番組で、僕が審査委員をしたときでした」
富澤は当時、伊達とは別の、中学時代の友人だった相方と「ゆやゆよん」というコンビを組んでいた。
「当時はボキャブラブームが終わって、都会っぽい感じの笑いが流行っていた時で、富澤はそれに対抗して、武骨な感じのねちっこいネタをしていました。そのオーディション番組では10週勝ち抜いたら吉本興業に所属できることになっていて、富澤は勝ち抜いたんです」
仙台で頭角を現しはじめた富澤だったが、番組はまもなく打ち切りとなり、仙台吉本も撤退。残された富澤たちは早くも厳しい局面に追い込まれていた。
「当時の仙台にはお笑いの文化もないし、仕事なんて入ってくるわけない。富澤たちはしばらく細々と営業をやって過ごしていた。まれに仕事が入って営業に行っても、富澤たちがネタでスベッて、子どもたちに石を投げられたこともあった。でも、オーディション番組に出ている頃から、富澤は『兄さん(ワッキー貝山)、俺が本当にコンビを組みたいのはこいつじゃないんです』って言っていた。その相方も『僕もお笑いで食べていくつもりはないです』と話してましたね。
その後、富澤はコンビを解散して、『兄さんに言ってた相方、やっと口説けたんで東京行ってきます』って言い出した。上京してホリプロにお世話になると」
笑いで仙台を盛り上げたいと考え、富澤のお笑いセンスや才能を誰よりも評価していた貝山さんは一瞬、冷静さを失った。そして、さらなる一言が、貝山さんを怒らせた。