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「酒鬼薔薇事件」で変わった運命

 ところが1997年2月。この刑務官たちの予想を覆す事件が起こった。14歳の少年が起こした神戸連続児童殺傷事件、通称「酒鬼薔薇事件」である。

「酒鬼薔薇事件」で大きく流れが変わったと坂本は語る。(写真は1997年7月25日、同年代の少年らが見つめる中、神戸地裁に入る少年を乗せたマイクロバス) ©時事通信社

 神戸市須磨区在住の中学生だった少年Aは4人の少年少女をハンマーや小刀、靴ひもなどで次々に襲い、二人を殺害した。Aは自身が疑われないよう捜査をかく乱する目的で、最後に殺した少年の遺体からは首を切断して、あえて自分が通う中学校の正門前に置いた。この残虐な所業はマスコミも大きく報じた。

永山則夫 ©共同通信社

「有名な死刑囚ほど、死刑の執行は難しいのです。特に永山はその筆頭でした。しかし、検察にとってはその困難な死刑を執行することこそが、大きな存在アピールに繋がる。この酒鬼薔薇事件は世論も含めて『少年も極刑にするぞ』という千載一遇のチャンスだったわけです。刑務官たちは覚悟しました。『これで永山に仕掛けて来るだろう』と」

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「法務省や検察には逆らえない」「絶対に殺してはいけない」

 ここで東京拘置所内では意見が2つに分断されていたという。

「キャリアを含めた幹部職員たちは法務省、検察の意向に逆らえないという意味での死刑肯定派でした。彼らにとっては東京拘置所は腰かけですから、異動すれば忘れてしまう。それよりも執行して点数を稼いだ方が良い。対して長く勤務していた現場の刑務官たちは、永山は絶対に殺してはいけないという考えでした」

©iStock.com

 坂本によれば酒鬼薔薇事件当時、東京拘置所には死刑確定者が三十余人おり、その中で永山よりも古い人物が10人以上いたという。仮に順番通りとしても永山の執行は数年先であった。

 しかし、少年Aが逮捕されると、早々に法務省から永山に対する死刑確定者現況照会が文書で届いた。