三好貴士(みよし・たかし)と聞いてその名前にピンと来る者は少ないだろう。MLBツインズ傘下のガルフコーストリーグ・ツインズ(ルーキーリーグ)で監督を務め、日本人では初となるメジャーリーグでの指揮を目指している42歳だ。日本での最後の球歴は神奈川県立相武台高校。しかもレギュラーから漏れた選手だった。そんな男がなぜ野球の本場で指導者として着実にキャリアアップをしているのだろうか。
高校で野球を嫌いになりそうになった
「挑戦をやめなかっただけですよ。誰でもできることをやってきただけです。履歴書を出しまくるとかメジャー関係者に電話をかけまくるとか地道なことを続けてきただけです」
三好はそうサラッと答えるが、不屈に、時には強引に道を切り拓いてきた。
日本国内での実績は皆無だ。神奈川県相模原市に生まれ、『キャプテン翼』に憧れてサッカーを始めたが「GKしかやらせてもらえなかった」と小学4年時から野球の道へ。小学生時代に地域選抜に選ばれたことでハワイ遠征に行き、そこで「こんなに野球も生活も楽しそうにするんだなあ」という記憶が朧げに残っているという。中学は弱小チームだっただけに、高校は公立で当時力のあった県立相武台高校へ。そこでは千本ノックや鉄拳制裁などが当然のようにあり、最後の夏こそ背番号7をもらったが補欠でいる時期が長かった。野球を嫌いになりそうになった。
そんな時、母から教えてもらったのが黒人初のメジャーリーガーであるジャッキー・ロビンソンの逸話だ。当時ドジャースに移籍した野茂英雄がアメリカで大活躍を遂げて旋風を巻き起こしていた。そのため、メジャーリーグの報道が劇的に増えており、日本のメディアはドジャースの偉大な先輩である彼の格言を紹介した。
「誰かに影響を与えない人生なんて意味はない」
「諦めきれないからテスト生にしてくれ」と懇願
この言葉に感銘を受けた三好は「いつか日本の野球に良い影響を与えるんだ」と思い立ち、高校卒業後に渡米した。英語もまったく喋れない中でフロリダの野球学校に入学し海外での野球人生が始まった。その後に短大へ進んだがMLBからのドラフト指名は得られなかった。
帰国してアルバイトで貯金をし、渡米をしてトライアウトを受ける日々。現地では白人から露骨に差別を受けることもあったが、「初めて自由を得たという気分でした。ああしろこうしろと言われることは無かったので」と日本とは違う野球スタイルが魅力だった。
2003年、カナダリーグのロンドン・モナークスからプロ野球選手生活をスタートさせた。トライアウトには落ちていたが「ここまで来て諦めきれないからテスト生にしてくれ」とGMに懇願。それでも断られ続けたが、売春で使われるような古びたモーテルに泊まりながらチームに通い、ついにはリーグコミッショナーにも懇願したところ「彼が監督に奴を入れてやれと言ってくれました(笑)」と入団に漕ぎつけた。
「バネが馬鹿になっていて、寝ると体がV字になるようなベッドでした。その時のモーテルの天井の写真は今でも見返しますよ。“こんなところにいたんだよなあ”って(笑)」
その後もオーストラリア、アメリカの独立リーグでプレー。27歳で「MLBの可能性が1ミリも無くなった」と引退した。