新しい住民との交流は……
ただ、自転車屋を続けるためだったのに、経営は次第に成り立たなくなっていった。
「大型店で安い自転車を買い、壊れたら捨てて、また新しく買う時代になりました。たまに来るお客さんはパンク修理ぐらい。便利屋に使われているような感じです。それでも店を開けていられるのは、自宅で家賃がかからないからです」と賢治さんは悲しい目をする。
賢治さんは昔からの付き合いで3丁目町会の副会長を務めている。新しい住民となかなか交流がないのが悩みの一つだ。
この辺りの盆行事は7月に行われ、町会では期間中に戦没者を慰霊するためのテントを設ける。「東京大空襲で湊は爆撃目標から外されました。近くに聖路加国際病院があったからだとされています。しかし、隅田川を挟んだ向こうの深川(江東区)は丸焼けになり、火に追われた多くの人が隅田川に飛び込んで亡くなりました。そうした人々のことを思う日でもあるので、この地区に住むなら来てほしいのですが、マンションの人は少ないですね」と賢治さんは話す。
「隅田川が見下ろせるマンション」という魅力
焼け野原になった地区でなくても祈りを捧げる。そうした下町らしい人情は失われつつあるのだ。
一方、マンションの住民はどのような理由で移り住んできたのか。
「川が好きなので、隅田川が見下ろせるマンションだというのが第一でした」と32歳の女性が語る。夫と2人で入居して、子供を出産した。近く第2子も生まれる予定だ。「主人はテレワークになり、子供も2人になるので、郊外もいいかなと夫婦で話したりしたのですが、新型コロナが落ち着いたら出社という勤務形態に戻るだろうと感じています。主人の会社は歩いて行ける距離なので、やっぱりこのマンションですね」。そう話すと、子供の手を引き、隅田川沿いの散歩に出掛けて行った。
同じ隅田川でも、新旧住民によって見つめるまなざしは違うようだ。
中央区の人口は著しい増減を繰り返してきた。
同区は江戸の中核をなした商業地で、明治維新後も日本の中心だった。それゆえ時代の波をまともに受けてきたのだと見られる。