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バブル崩壊後の2.4倍近くまで増えた人口

 1920(大正9)年に第1回の国勢調査が行われた時、現在の中央区のエリアには27万人近い人が住んでいた。しかし、会社などの進出で新しく住む土地がなくなり、人口の伸びは鈍化した。関東大震災があった1923(大正12)年には9万5000人ほどに減った。震災復興と共に人口は回復し、28万人台に達したものの、太平洋戦争の空襲で日本橋は面積の49%、京橋は21%が被災して、終戦の1945年には人口が9万人を割り込んだ。

 戦後は引き揚げや疎開からの帰還、東京への流入などで増加に転じ、1953年には17万2183人を数えた。これが戦後のピークである。その後は高度経済成長期の都市開発で民家が減るなどし、1975年に10万人を割り込んだ。危機感を抱いた区役所は「定住人口回復対策本部」を設置したが、バブル経済の地価上昇で流出が止まらず、その後はバブル崩壊のダメージも加わって、1997年4月に7万1806人まで減った。区の最少人口となった。

前回の東京五輪が開催された1964年に佃大橋ができるまで、湊3丁目には佃島渡船場があった ©葉上太郎

 その後は徐々に増えて現在に至るのだが、「大きかったのは容積率の緩和」と区役所の企画部、糟谷直孝副参事は語る。

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 建築物は敷地の用途によって建設可能な床面積の割合が決められている。これを緩和すると高層化が進められる。月島を中心にした再開発はその結果だった。

 中央区の人口は、今年7月1日時点で17万1428人。バブル崩壊後の2.4倍近くに増え、戦後のピークと肩を並べるまでになっている。

2027年には20万人を超える……?

 開発計画はなお目白押しだ。区役所の推計では、2027年に20万人を超え、2031年には約21万5200人に達するという。人口減少に悩む国とは思えない予測だが、区役所はそれでも他地区から吸収できる人口があると踏んでいる。

 だが、このところの人口急増で何が起きたか。

 マンションに入居するのは30~40代の子育て世帯が多い。このため小学校の校舎が不足し、5校で増築などを迫られた。それでも足りずに2校で改築、もしくは改築中だ。新校の計画も2地区である。

 月島エリアの都営地下鉄・勝どき駅は、通勤客があふれそうになり、ホームの増設をよぎなくされた。別の地下鉄建設の議論も始まっている。

 そうした状態であるにもかかわらず、中央区には急速に「過疎化」が進む地区がある。

#3に続く