長いペナントレースの戦いの幕がまもなく下りるなか、現役生活58年目を終えようとしているアナウンサーがいる。ニッポン放送ショーアップナイターを担当する、宮田統樹アナ。御年80歳だ。

「1964年の東京オリンピックの年に入社し、スポーツ部に配属されてプロ野球を中心にスポーツに関する業務をやってきました。僕はラジオで野球実況をすることが大きな夢だったんですよ。それを目指して頑張ったんですね」

 子どもの頃はゴム毬で野球をして遊び、1箱10円の紅梅キャラメルにおまけとして付いていた野球カードを集めた。NHKラジオの「話の泉」「二十の扉」「とんち教室」が好きで、熱心に聴きながら前振りを記憶、ニュースを読むアナウンサーの名前を手帳に書き込むという「変な少年でした」。

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 結婚13年目の1981年、都内から所沢市に居を移した。西武ライオンズが所沢にやって来て2年後のことで、森祇晶監督が就任した1986年から主に西武を担当している。

「その頃の僕、きっとあまり上手ではなかったんです。『才能はない』って先輩に言われて。ラジオ中継はセ・リーグ中心だから、パ・リーグは本線から外れているんです。でも、外れたら外れたでいいんだって、神経質に考えないから今ものんびりと恵まれた環境にいるのかなと思いますね(笑)」

今日も楽しそうにベルーナドームへ向かう宮田アナ ©中島大輔

好きな野球を忠実に「描く」

 森監督の下で西武は黄金期に突入、プロ野球史に刻まれるほどの輝きを放った。他を寄せ付けない強さを目の当たりにしながら、宮田アナは“本線”から外れながらも大事に守り続けてきたことがある。

「実況を忠実に追っていきながら、聴いている人に絵を描かせるようにと意識しています。先輩からも『ラジオは描け』と言われました。『打ちました。レフトが構えて捕りました』とただ言うのではなく、同じフライでも詰まったフライなのか、勢いがあるフライなのか。『矢のような打球』というのはNHKのアナウンサーの先輩諸氏がつくった言葉なんです。僕も打球の表現力を一生懸命勉強しました」

 80歳でアナウンサーとして現場に立つのは、それだけでも尊敬に値する。ライバルでもある同業者や、取材対象である選手たちが相対的にどんどん若くなるなか、ベテランならではの味を磨く必要があるはずだ。

 日本人の平均寿命が伸び、同時に少子高齢化が進むなか、定年をすぎても働き続けるという選択肢は今後増えていくだろう。スポーツ中継のアナウンサーは前日から入念な準備を行い、本番では気を抜けない時間が続くが、なぜ宮田アナは80歳となった今も現役で喋り続けることができるのだろうか。

「僕ね、アナウンサーの仕事をしていて会社に行くのが嫌だとかいうことがなかったんですよ。もちろん球場に行くこともそう。緊張して、できれば喋りたくないなというときはありましたけど、コンディションも合わせていくから。好きなことをできるのが一番良かったのかな。野球自体は素人だけど、喋ることは大好きなんでしょうね。スポーツ実況が」