開幕という始まりの日に、68年にもわたる歴史の終わりの日を迎えるとは何たる皮肉だろうか。

 2023年3月31日をもって、スポーツ紙「西日本スポーツ」(略称・西スポ)が紙面発行を休止した。同紙は1955年2月21日に創刊した九州初のスポーツ新聞。創刊当時はまさしく西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)が黄金期に突入した時期だった(56年からリーグ&日本シリーズ3連覇)。

 そして福岡にホークスがやってきてから現在に至るまではずっと、どの媒体よりもホークスを分厚く、深く、とことん取り扱ってきた。全国的に見れば他に大きな出来事があってもホークスが1面を飾ったし、勝ったときだけでなく負けても1面は当たり前。さらに1~3面までのほとんどがホークス記事で埋め尽くされていた。

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 だからこそ西スポはホークスファンにとって「バイブル」であり、さらに鷹党のあいだでは「大本営」とも呼ばれ、西スポに載る情報への絶対的信頼を勝ちとっていた。

©時事通信社

「新聞報道」の枠を大きく超えた紙面への“衝撃”

 こんな仕事に就いてみたい――。

 筆者は、元テレビ局で報道部にもいた父親の影響で小学生時代からマスコミ志望だった。プロ野球を本格的に見始めたのは小4。その後成長するにつれてその熱量がどんどん高まっていき、高校生の頃には「スポーツ記者」になる目標を持つようになっていた。

 高校卒業後、福岡で浪人時代を過ごしたときに初めて西スポを手にした。衝撃を受けた。たしか8月だったと思うが、1面に“ルーキー”松中信彦選手が取り上げられていた。その内容がウエスタン戦で1試合複数本塁打(3発だったかな?)を放ったというネタだったのだ。当時(97年)のホークスはまだ弱く、真夏なのにペナントレースはもう“お寒い”状態。地元スポーツ紙としても期待の若鷹に未来を託したのだろうが、それまでの自分の中にあった「新聞報道」の枠を大きく超えた紙面を読んで「近い将来、ホークスは必ず強くなるんだ!」と一ファンとして胸を熱くした。

 大学時代はスポーツ新聞サークルに入り、自分の通っていた大学の部活を取材し記事を作るという生活に没頭した。

 やっぱりこれが自分のやりたいことだと確信。就職活動では当然、スポーツ新聞の記者を第一志望にした。結論から言えば、その夢は叶わなかった。ちなみに西スポ(入社試験自体は西日本新聞)は結構早く落ちた(苦笑)。就職浪人も覚悟した大学4年の夏の終わり頃に、創刊したばかりの『月刊ホークス』に自ら売り込みをしたことが奏功して運よく拾ってもらえることに。

 かくして私は2002年より「タカ番」となった。